鎌倉方の大軍が押し寄せる中、只一人勇敢な戦いをした山田次郎重忠であったが、宇治川の戦いで敗れて、御所において最後の戦いをせんとしたとき、御所の門は固く閉ざされて、入ることが出来なかった。山田次郎重忠は「大臆病の君に騙(かた)られたわ」と憤慨したという。
情勢不利と見た後鳥羽上皇は幕府方に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てだとして、北条義時追討の宣旨を取り消し、官軍方で戦った藤原秀康や三浦胤義らを逮捕するようにとの宣旨を下したという。これが本当だとすれば、そんな君のために命を捧げて、さぞかしその無念はいかばかりであったろうかと思う。
しかし京に入った北条義時は、その戦後処理において、後鳥羽院は隠岐に流され、後鳥羽方で戦った者たちも多く処断された。
この結果朝廷は完全にその力を失い、鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置し、鎌倉幕府が完全に支配する体制を作り上げた。
以来、後醍醐天皇による建武の新政はあったが、その後徳川幕府が滅びるまで武家政治が続いて行くのである。
大臆病の君に騙られた、山田次郎重忠の無念の心は、その後どのような結実を見るのだろうか?
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