2012年11月28日水曜日

鑑定団に出た山田先生

テレビ東京系列の何でも鑑定団
私も好きで良く見ている。

先日・・・見た方もあると思うが
津山の山田先生・・・山田共学道場という英語塾の理事長さん

棟方志功の「釈迦十大弟子」菩薩像を両脇につけた12面の屏風絵。
最初一目見て、すごいなと思ったが、鑑定結果がすごかった。
相当の結果が出るのではと思ったが、結果はそれ以上、桁違いでした。

棟方志功が、津山に疎開していた時に今の山田理事長のお祖父さんが手に入れたものだそうだが、それにしてもすごい!

どうも山田姓の人の中には一風、変わった人も多いが、いい意味で変わった人も多い。

この津山の山田先生、我が家の山田家の家系とつながりがあるのかどうか気になるが、出会える機会があれば聞いてみたいものである。

2012年11月27日火曜日

黒田サミットに参加して

この日曜日、長船の「おさふねふれあいゆめプラザ」で「黒田サミット」があると聞いたので行ってみた。
林立する「黒田官兵衛」ののぼり・・・。

「黒田サミット」というのは、黒田官兵衛と黒田家ゆかりの、滋賀県長浜市(木之本)・・・黒田荘(黒田家父祖の地)、岡山県瀬戸内市(旧長船町福岡)・・・備前福岡(黒田家再興の地)、兵庫県姫路市・・・ここで再興後初めて城主になり、ここで官兵衛が信長と秀吉に仕えるようになる、大分県中津市・・・(官兵衛が秀吉からもらった領地)、福岡市・・・・関が原の合戦後長政が城主になり、その城の名前に黒田家再興の地、備前福岡の名をつけたのが「福岡」の始まり。
この黒田家ゆかりの4市の町おこし運動の連合会である。

今回は再来年のNHK大河ドラマの主人公が黒田官兵衛に決まったと言うことで大盛り上がり!

黒田家16代当主の黒田長高氏も来られて挨拶をしておられたが、この日の基調講演は姫路の歴史研究家黒田美江子さん。「黒田官兵衛物語」の題で、年間何百回も講演をこなすと言われる慣れた語り口で「官兵衛さん」と黒田官兵衛に親しみを持って語ってくれた。

その黒田美江子さんの話す黒田官兵衛の人柄に「山田家のスピリット」に通じる世界を感じたので一言書きたくなりました。

近江の黒田荘をところ払いとなり、諸国を遍歴した黒田官兵衛の曽祖父黒田高政は当時山陽道一の商都として栄えていた福岡に定着、家伝の薬を商いしながら財を成し黒田家再興を果たした。官兵衛の祖父、重隆はここで生れた。(今回黒田さんは重隆は官兵衛の実は父親ではなかったかと言う説・・・ある寺院に残っていた黒田家の系図から推理・・・も紹介していた。)

黒田家はその後赤松氏などに仕えながら姫路の城主になり、官兵衛もそこで生れたことになっている。官兵衛は文武を身につけ、その後信長と会い、秀吉の軍師になっていくわけである。

講師の黒田美江子さん、さすが女性講師で、黒田官兵衛を「官兵衛さん」と呼びながら官兵衛の人柄を褒めていた。三木城に囚われの身になった1年間に貫いた律儀さはもとより、生涯たった一人の妻を愛しぬいた愛妻家であったことなど、その人格にほれ込んだ話であった。最期秀吉から天下を取る男と見られ、関が原の合戦時には天下を取るチャンスがありながらも取らなかったのは「平和を愛する心」があったからではないかとの黒田美江子さんの評。

官兵衛の曽祖父は幼いころお寺に預けられ修行したと言われるが、黒田家の家風はこうやって出来たのかもしれない。


黒田家の家風に、山田家の家風と合い通じる精神性を感じる。
心優しさや律儀な性格、家族や領民を大切に思う精神など、その美徳は相通じるものを感じる。

よき日本の精神を大切にして、平和の世を築きたい!
今朝も家族で話し合ったところである。

2012年11月6日火曜日

山田方谷研究会

方谷研究会に誘われて参加してきました。
場所は西川レストラン。
総会後、講演は会長の朝森要先生と、代表の太田先生の話でした。
とても勉強になりました。
山田方谷先生とは同じ尾張山田氏で、同族として共感するところ大いにあります。
再来年の大河ドラマが「黒田菅兵衛」に決まったと言うことで、次は山田方谷先生をとの声もあるようです。
窒息しそうな現代日本、現代の方谷先生が出てこないといけない時ではないのかと実感します。
もちろん、山田次郎重忠のような!

民の煩いをどう実感し、具体的政治を行うか。声無き声を聞かないといけないのでは!
昨日、NHKのアサイチで「サイレントプーア」の特集をしていて、見てしまいました。 貧困化する女性たち。ワーキングプアとも言われますが、これはどちらかと言えば男性・・・
いうにいえない貧困の中であえぐ人々が増え続けている実態。そのことに何らの対策も無く政権争いを続ける政治の実態。

こういう状況をどう打開するのか?単なる生き方論では解決できないようにも思う。

陽明学者の大塩平八郎は乱を起こしたが、それ自体は成功したとはいえなかった。
山田方谷先生も陽明学を学んだが主君板倉勝静に用いられその手腕を発揮できた。

要は政治指導者がそのような理念と精神を持っているかだが?
それは今期待できるのだろうか?

今私は自分自身の非力さに身もだえしているのですが・・・

2012年4月26日木曜日

山田方谷先生

小生、岡山歴史研究会の会員になっていますが、この30日に、岡山のさん太ホールで、総会と講演会、そしてパネルディスカッションが開催されます。パネルディスカッションのテーマは[山田方谷]小生も一族でもある山田方谷先生のことですので是非参加する予定です。会員外の人も参加出来るそうですので、近隣の方、是非ご参加ください。参加費無料だそうです。

2012年4月17日火曜日

佐渡さんも・・・

昨年9月にWikipediaから引用した。山田家のルーツ満政流について


満政の子孫は長男・忠重の系統が美濃から尾張、三河方面にかけて進出し、嫡流の八島氏からは浦野氏、山田氏、高田氏、水野氏、足助氏、小河氏、小島氏、佐渡氏、木田氏、山本氏など多くの氏族が輩出されたほか、次男・忠隆の系統は主に近江国を地盤として善積氏や雨谷氏、和田氏などを称した。また、三男・忠国は摂津国との関係が記録に残っている。(Wikipediaより)


佐渡さん・・・今最も脚光を浴びている指揮者の佐渡さんも・・・佐渡一族が満政流だとすると・・・
音楽好きの私としては少し嬉しくなりました。
他にも知り合いの人の中に同族の姓がいくつも・・・
思い当たる人には「同族ですね」と声をおかけしていますが・・・
このページをたまたま目にされた方も同族でしたら・・よろしく!



2012年3月28日水曜日

承久の変後の山田家?

応急の変で無念の最後を遂げた山田次郎重忠・・・・その後の山田家はどうなったのか?
私が聞いているのは、その後戦国時代、墨俣で今度は織田信長に敗れ、備中に逃れ、そこから今まで血統がつながったと言うこと・・・その間の山田家の動向が知りたい。
家系図は本家に残っていて一度本家の当主に見せてもらった。その時おおよそは書き写させてもらったのだが・・・・
承久の変の後、山田家がどのような運命をたどったのか、そのあたりを知っている人いないだろうか?
同族の方、あるいはその時代の研究をしている方、そのような資料をご存知の方あったらぜひ教えていただきたい。
吉備の山田までご連絡ください。

2012年3月25日日曜日

無念な最後であればこそ・・

承久の変でもっとも勇猛に闘ったのがわが先祖山田次郎重忠である。[腰抜け]でちょっと判断ミスの後鳥羽院であったが・・・。最近読んだ歴史の本で、後鳥羽上皇は結構優秀だった。承久の変さえ起こさなかったら・・・」という一文があった。鎌倉幕府追討の命を発していながら、最後に責任逃れをしたのはどうもいただけないが、それでも当時の朝廷では、勇猛な性格を持った上皇であったらしい。
それはそうと・・・おかげでわが山田家はひどいめにあたった。一族は領地を没収され、佐渡にも流された。その後の経過はわからないのだが・・・・その後戦国の時代、織田信長と墨俣の戦い、破れて備中に落武者として来たのがわが先祖と聞かされた。
まあ、酷いもので・・・このとき官軍方についていなければ、ずっと尾張の地頭でしたから、もっと有名になっていたかもしれない。それは解りませんが・・・・
惟、官軍方について勇敢に戦ったという記録は、戦いに負け、号令を発した院からも見捨てられ、悲憤慷慨して自決した次郎重忠の心は生きていると思う。[心優しき侍]との評を沙石抄に残しているのも誇りである。
歴史上無念の生涯を終えた人物は数知れない。特に宗教家には多い。楠正成など忠君の士もそうである。惟それは、そのときは無念であるが、その歴史はその後の歴史に輝かしい道を開いてきた。
公家の政治から武士の政治に・・・開いてきたのは最初は平清盛だが、この承久の変を境に完全に武士が実験を握り、京都には六波羅探題が置かれた。そして武士の時代は明治維新まで続いた。

まあ、ここで一番言いたいのは・・・殉難者が殉難だけで終わってはいない。それは一見ただの犠牲のようだが[、実はそうではない。困難や殉難を経て開かれた文化がある。生き様があると言うことを言いたい。それをこれから書いていこうと思う。

今日はこのあたりで・・・

2012年1月1日日曜日

謹賀新年

山田家も新年を迎えました 益々、政治も経済も社会情勢も混迷を深めて迎えた平成24年 打開の糸口は・・・? 山田家のスピリットの中にそれがあると思います。 東日本大震災に示された天皇陛下はじめ皇室の方々の暖かい思いやりの心としぐさ それに引き換え、責任逃れと保身に右往左往する政治家や責任者たちのの醜い姿 問題は政経界に「心」ある人間がいないこと。 松下電器、今のパナソニックを創業した松下幸之助氏が創設した「松下政経塾」と言うのがあったがあれはどうなったのだろうか? 確か野田総理もその第一期生だったように思うが・・・ 今年も「山田家の心」を発信していきます。 それと、やけに気になるのが山田姓、テレビなどでも山田姓の方が登場するととても親近感を感じます。 同族かな?と・・・ 一般的に地域や社会で貢献している方が多く登場するけれど、今のこところあまり悪人は見ない。 今年も山田姓の方、頑張って生きていきましょう!