2011年6月2日木曜日

心の優しさが政治の基本

熊沢蕃山先生は「士(サムライ)は愛だ」とといたが、現代の政治家には「愛」があるのか?自己愛のほうが多い人間が多く見受けられる。自分が悪く思われないことだけを考えて政治の舵取りをしている人も多いように思われる。
わが先祖山田次郎重忠が「心優しく民のわずらいを知る侍」と言われたと何度もこのブログで書いたが、この心の優しさや民のわずらいを知る心が「愛」であろう。
父母がわが子をいつくしむ心。
これこそ、為政者が心がけるべき心構えである。
江戸時代1の名君といえば備前の池田光政公、そして会津の上杉庸山公、備前の池田公は中江藤樹から陽明学を学んだ熊沢蕃山を取り立てて、蕃山からその教えを学んだ。そしてそれを政治の実践に生かし、多くの民を救い、民からも慕われた。備前の大洪水の時には藩の倉を開放して領民の救済に当たった。逆に藩政の危機の時には領民が藩の支援を申し出た。領主と藩民の心の通い合いがあった。
会津の上杉庸山が養子として上杉家にはいるとき、その師は領主は民の父母であることを教えた。庸山公はその教えを堅く守って、藩政危機に陥った会津を救済した。彼の施は領民を救い、藩を上げての質素倹約と、殖産事業の推進は、財政破綻し、多くの農民が逃亡していた会津藩を豊かにし、その後の度重なる飢饉にも会津からは一人の餓死者も出さなかった。
愛はどこに注がれるのか?聖書には99匹の健全な羊を置いても失われた一匹の羊を探すのがよき羊飼いだと教えている。
愛は真っ先にわずらいの中にある民に向けられるものである。
今日本列島で最もわずらいの極致にあるのが大震災と津波そして原発事故で非難を余儀なくだれている人たちである。2次3次の被害を受けている人たちも多い。
今時分のことなど考えている暇はない。かっての名君のような政治を今政権を担っている政治家たちができるのか?できているのか?それだけの優しさ、愛情を保有しているのか?そこが問題だと思う。