2010年3月27日土曜日

山田次郎重忠とは

山田次郎重忠とは
Wikipediaにはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/山田重忠
尾張山田庄の地頭とある。
後鳥羽上皇が鎌倉の北条氏に対し西国の武士たちに呼びかけて、幕府追討の命を出して戦ったのが「承久の変」である。
このころ尾張山田氏は「京」とのつながりが深く、官軍方についたと思われる。
この時、鎌倉では尼将軍といわれた「北条政子」が実権を握っていたが、幕府追討の令が下ったことに怖気ついていた、鎌倉の武士団を鼓舞し、官軍に立ち向かうことを決意させていった。
自らの存亡をかけた鎌倉武士団にひきかえ官軍は「京」をないがしろにしてきた、鎌倉への不信から発した「上皇」の命であったが、まとまりに欠け、明らかに劣勢であった。
そのような中で山田次郎重忠は墨俣の戦いや勢田川の戦いなどで奮戦し、三浦胤義らとともに最後まで戦って最後は自害して果てた武将である。
承久の変については Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱 参照

2010年3月24日水曜日

わが先祖「山田次郎重忠」と山田家のルーツ

山田次郎重忠
わが先祖の名前である。
尾張山田氏
清和源氏満政流

かって「承久の変」において官軍方につき
獅子奮迅の戦いをしたが
悲しいかな、幕軍に敗れ
自害して果てた。

無住国師の書いた「沙石集」には
「心優しい侍」とある。
勇敢且つ心優しい侍

今も重忠が建てた「長母寺]が
名古屋市北区にある。
重忠が母のために建立したという

尾張山田庄
山田家の故郷

わが先祖「山田次郎重忠」と
山田家のルーツを追ってみることにする。