2010年12月16日木曜日

和気清麻呂と山田次郎重忠

和気清麻呂と言えば平安京を造営した人物として、また弓削道鏡事件の時、宇佐八幡の神勅を奏上して皇統を守った人物として有名であるが、山田次郎重忠とどのような関連性があるのだろうか?

私は、その精神において極めて共通する部分を多く感じる。
山田次郎重忠は「心優しく民の煩いを知る侍」だったが、その民を思う心の優しさや忠君の精神が極めてよく似ている。
そしてその宗教性である。山田次郎重忠は、その生涯、その母のために建てたという「長母寺」を始め多くの寺院を建てている。
一方和気清麻呂と言えば、平安仏教と言われた、比叡山と高野山、最澄や空海を取り立てて庇護した人物として有名である。故郷の備前和気郷にも、多くの寺院の建立の記録が残っている。

私はその精神性のルーツがどこかでつながっているように思う。
私はその精神性のルーツが「秦氏」と何らかのかかわりあるのではと思っているが、まだ確証は得ていない。
私の書いている別のブログ、[吉備楽土]や「日本と宗教」にも書いているのでよかったら参照してみてほしい。

2010年11月11日木曜日

尖閣列島で衝突してきた漁船は中国海軍か?スパイ船か?

尖閣列島中国漁船の衝突の映像がUチューブに流され、海保職員が自分がやったと申し出た。おかげで、連日このビデオを、ほとんどの日本国民が見ることが出来た。マスコミのニュースにも、繰り返し繰り返し流されて、この映像を流出させた、海保の職員には本当に感謝しないといけないだろう。
彼は義憤に燃えた気持ちでこの映像をUチューブにアップしたと伝えれている。
さて、この映像を見てもわかるが、その操船技術は、普通の漁船のものとは思われない。
普通の漁民があえてこのような事をするのか。海保の巡視艇に逆らうようなことをすることは考えられない。そうだとすれば、ほとんど確実に、この船は「スパイ船]か、海軍か何らかの国の息のかかった船には間違いない。だからつかまるわけにはいかない。つかまってはならなかった。つかまってもその身もとやその正体が暴露されることが一番恐ろしいことだったのではないか。
だらか、中国政府はなりふり構わず、漁船員の無条件釈放を要求してきた。
帰していなければ、実に恐ろしい真相が明らかになったのかもしれない。
あとは付け足しである。
今回のビデオは機密でも何でもない。真実を明らかにした事実の映像である。当然国民として知る権利のあるものである。
問題は中国漁船と、その乗組員、知られてはならない「機密]があった。
ここのところが一番大きな問題ではないか。
マスコミも、政府もここの所をほとんど知らせていない。
情報流出に問題があるのではない。中国漁船が何者で、ここで何をしていたのかが問題なのである。

2010年11月10日水曜日

こういう不法を許しておいてどうする 尖閣問題海保職員逮捕に思う

問題は腰砕けの日本政府
最初は毅然とした態度を取ると言っておきながら、中国側が強硬に出てきたら、いとも簡単に、容疑者の船長を帰してしまった。そして証拠ビデオも、見せる見せないと言って一部議員だけに公開。
憤懣やるかたない思いで、自らの進退を決して、ビデオを流出させた海保の40代職員に、国民のほとんどが同情している。
彼を罰しないでほしいという世論が大半を占めている。たとえ罰せられても彼は英雄である。
国民の憤懣やるかたない思いを、どこかにおいて、場当たりのことばかりをやっているような政府には愛想が尽きる。
中国政府ははっきり言ってもっとお粗末である。あまり外国の政府のこと悪く言ってもしかたがないが、日本政府を手なずけても、日本1億2千万国民を敵にしたら、結果どうなるか!まあこの不法な中国政府のやり方はあくまで国内向けだろうが、それはそのうちとんでもない結果をもたらすだろう。
ただし、中国でも実際には自国の間違いを苦々しく思っている人が潜在的に増えていることは間違いない。自分たちの政府の間違いに気づいて、これではいけないと思っている世代が増えて来ている。
政府の発表をそのまま信じてい馬鹿な事を言っている人たちもそのうち、自分たちの指導者がいかにいい加減か気づくでしょう。

真実しか残らない。海保職員の不法だが、愛国の情、正義の情、国民広く共感を得るであろう。
自分たちの苦労を水の泡のようにしてしまおうとした、政府へのやむにやまれぬ勇気ある行動と国民は捉える。

2010年11月8日月曜日

突然ですが私の好きな曲 Asong of Peace

ここで突然ですが
私の好きな曲を紹介します。
A Song of Peace
フィンランドの音楽家シベリウス作曲のフィンランディアの中の代表的なフレーズです。
英語の歌詞は以下の通り



A Song of Peace
THIS IS MY SONG
This is my song, O God of all the nations,
A song of peace for lands afar and mine.
This is my home, the country where my heart is;
Here are my hopes, my dreams, my holy shrine;
But other hearts in other lands are beating
With hopes and dreams as true and high as mine.

My country's skies are bluer than the ocean,
And sunlight beams on clover-leaf and pine.
But other lands have sunlight too and clover,
And skies are everywhere as blue as mine.
Oh, hear my song, O God of all the nations,
A song of peace for their land and for mine.

My country, 'tis of thee,
Sweet land of liberty,
Of thee I sing.
Land where my fathers died,
Land of the pilgrims' pride,
From every mountainside,
A song of peace



この歌詞がとてもお気に入りです。
ロシアの圧政の中で、それを克服して、平和を勝ち取ったフィンランドの人々
この歌詞には国土と平和を愛する愛国の情があふれています。
平和を愛する心はいずこの国も同じ


ユーチューブで探すと、何万人もの大合唱の映像があります。感動します。

TBS99年の愛を見て japanese american 日系人の持った[大和魂]について

昨晩まで5夜連続でTBS[99年の愛 Japanese American]を見させてもらった。
興味深い内容で、太平洋戦争を挟んで、日系米国移民の人たちの、苦悩の歴史を学ばせていただいた。
わが親族にも日系移民の方がいて、[ずいぶん苦労したんだな]と、改めて思わされた。胸が痛む。
さて、日系移民たちの名誉を回復させた[442部隊]の話が、織り込まれていた。日系二世たちが志願して、米兵となりヨーロッパ戦線に派遣され、勇敢にたたかった。特に困難だったテキサス大隊の救出作戦では、多大な犠牲を出しながら、その作戦を成功させた。その442部隊の凱旋パレードの様子が大々的に報道され、全米の日系移民に対する感情が大きく変わった。
アメリカに渡った日本人は、勤勉に働き成功するものも多くあった。どんなときにも日本人としての誇りを失わなかった。
日本が戦争に突入しても、日本は「神の国」だかから、絶対に負けないと信じていた人たちも多くあったようである。
442部隊も日本人のスピリットを持って戦った。[大和魂]である。
思えば日本は精神性を大切にして来た民族であったと思う。「日本は神の国」と信ずるほどに、信仰心の篤い民族性であった。そのことにおいてはずばぬけていたのではと思う。
問題は、その神の国観が少し、独りよがりだったような。
日本は確かに神の国だったが、その「神」は、世界のすべての国民の神でもあることを、配慮しきれなかったところに、悲劇があったのではとも思ったりする。
いずれにせよ、日本がはぐくんだ精神性の高さが、日系アメリカ人の苦労を乗り越えた成功へと導いた秘訣であったように感じたドラマであった。

2010年11月4日木曜日

腰ぬけ外交には腹が立つ 不法は許さない固い決断が国には必要

メドベージェフ大統領が1日、日本との係争地である北方領土の国後島を訪問した。
本当にいま日本は馬鹿にされ続けている。尖閣列島で野蛮行為を行った中国漁船員をいとも簡単に釈放して、日本は少し外圧を加えれば、なんとでもなる、弱小国家であるとの烙印を押されたようなものである。菅さん、民主党ちょっとしっかり頼みますよ!
尖閣列島は日米安保の協議対象とした、米国の発言に[尖閣問題は、中日二国間の問題]と、いとも簡単に切り返してくるなど、考えられないくらい強気だね。よくもぬけぬけと言えるものだと思う。
日本も力をつけなければならないと国民大衆は思うようになってきている。だからと言って単純に軍備増強というわけではない。きちんと筋を通す外交実力を持つことである。そしてそのことを中心として、同盟を結束をより強化することである。
不当な行動にはもっと国際世論に訴えるべきである。日本の強さを世界に示すべきである。要は国家観の問題である。
中国やロシアの不法行為を許して行けばどうなるのか?まさに覇権主義が世界を支配することになる。今後の世界平和のためにも断固不法を排除しなければならない。そのような固い決断が必要である。

2010年10月28日木曜日

まだまだ続く反日デモ

中国でまだまだ反日デモが続いているらしい
中国でも、特に内陸部で多く起こっている。
先日上海から来ている留学生と話す機会があって聞いて見たが、上海や北京では、全くそのような動きは無く、平穏そのものらしい。
日本人とよく接する機会の多い地域では、日本人の礼儀正しさや清潔さをみて、日本人に好意を抱いている人たちが多いので、過激なデモなど、考えられないそうである。

この反日デモ、官製といううわさもあり、反政府デモでは取り締まられるので、[反日]を掲げた実は「反政府]デモだという向きもある。結構当たっているのかもしれない。

いずれにせよ、今日本国民は反中感情が高まっている。尖閣諸島で巡視艇にぶつかってきた漁船の映像ビデオの公開問題で揺れている。「転落した海上保安庁員を漁船員がモリで 突いている映像がある」のではという情報も本当かどうかわからないが話題になっている。
海上保安庁は否定しているが、それならうそかまことか映像をはっきり見せてほしいものである。
本当に嘘でなかったらその部分はカットするか修正して提出するかな?

話をした留学生も「困ったもの」と言っていた。日本に来て思うのは、本当の意味で両国は平和に友好的にならないといけない。「今の中国の行き方は・・」とお茶を濁したが、本当に世界を知った世代が次世代のリーダーにならないと、中国は変わらないのかなとも思ったが、今中国の若い世代が、インターネットなどを通して、確実に外の世界を知って、党の言い分だけを真に受けている時代は終わってしまっていると思った。

2010年10月20日水曜日

反日デモをどう見る

中国で反日デモが続いている。
日系のスーパーや、日本車が攻撃のやり玉に挙がっている。これは官製デモだという向きもある。
ことの本質な何なのか?
中国の民主化運動家がノーベル賞を取り、温家宝首相は[言論の自由]を言った。しかし、共産党はお構いなしのようである。
共産党が問題である。もはや指導部もどうすることもできない力を持っている。指導部はまだ、外国とも接し、ことの常識をわきまえるすべを多少は知っているようだが、実際の権力を執行している、共産党は完全に権力機関として、強圧、暴力、謀略、不法が常になって、その横暴な権力をほしいままにしている。
長い間の一党独裁がそうさせてしまったのであろう。しかも思想が、[共産主義]唯物論、無神論、暴力革命肯定理論と来ている。毛沢東による「文化大革命」は、共産主義の恐ろしさを身にしみて感じさせられたが、その当時紅衛兵として暴虐の限りを尽くした、その時代の若者が、今は社会のいたるところで中枢になっている。
その時代に青少年で、残虐な行為を見てきた者たち、共産思想、毛沢東思想を骨の髄まで教育された者たちが、共産党など社会の実権を握る位置を占めている。
もはや救い難い状況になっているのが中国の実態である。
このままでは中国は崩壊する。ますます横暴化して、手がつけられなくなる。それを何とか防ぐ手立てを考えなければならないであろう。
これは中国の民衆にっても、アジア、世界全体にとっても、そして我知らず過ちを犯し続けている彼ら自身にとっても重要な問題だと言わざるを得ない。

2010年10月19日火曜日

大臆病の君に騙られたわ

鎌倉方の大軍が押し寄せる中、只一人勇敢な戦いをした山田次郎重忠であったが、宇治川の戦いで敗れて、御所において最後の戦いをせんとしたとき、御所の門は固く閉ざされて、入ることが出来なかった。山田次郎重忠は「大臆病の君に騙(かた)られたわ」と憤慨したという
情勢不利と見た後鳥羽上皇は幕府方に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てだとして、北条義時追討の宣旨を取り消し、官軍方で戦った藤原秀康や三浦胤義らを逮捕するようにとの宣旨を下したという。これが本当だとすれば、そんな君のために命を捧げて、さぞかしその無念はいかばかりであったろうかと思う。
しかし京に入った北条義時は、その戦後処理において、後鳥羽院は隠岐に流され、後鳥羽方で戦った者たちも多く処断された。
この結果朝廷は完全にその力を失い、鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置し、鎌倉幕府が完全に支配する体制を作り上げた。
以来、後醍醐天皇による建武の新政はあったが、その後徳川幕府が滅びるまで武家政治が続いて行くのである。
大臆病の君に騙られた、山田次郎重忠の無念の心は、その後どのような結実を見るのだろうか?

2010年10月17日日曜日

反日デモ 国民を正しく教育できないところに未来は無い

日本の中国大使館へのデモは静かに行われたそうだが、中国でのそれは、破壊行為でとんでもない状況だと聞く。
ちょっと恐ろしい状況、背後で誰が何を狙っているのかわからないが、日頃の鬱積のはけ口になっているのかもしれない。
民主化運動家にノーベル平和賞が授与されて、行く道の無くなった指導部の一部が腹いせまひれに行っているのか?それぐらいならまだいいが、
良識をわきまえられない、人々の狂気の行動を見ると、暗澹たる気持ちがしてくる。

中国留学生が日本に来て、実感するのは、日本人の人のよさだという。皆人間としての節度をわきまえている。忘れ物があれば必ず届けてくれる。わずかのお金でもごまかさない。正直な国民性である。
これは国民の、道徳性、倫理性の教育が行きとどいている結果である。

だから中国の富裕層、子女を日本に留学させられるような階級層は、事実を知っている。今の共産党政権下では、そのことを表向き表明は出来ないだろうが、真実はもはやごまかせないのである。

だからといて今の中国のことをことさらに悪く言うつもりもない。要は未来に残る善民教育を、いかに推し進めるかである。敬天愛人愛国の精神をしっかりと教えることだろう。
忠孝の精神の根本をしっかりと教えることである。忠孝の精神の根本は、親の立場、師の立場、指導者の立場にたつことである。
そして指導者の資質は「愛」にある。

2010年10月15日金曜日

心優しく、民のわずらいを知る侍だった

「沙石集」にある、[山田次郎重忠]についての無住国師の記述である。

惜しいかな、重忠は、後鳥羽上皇の起こした「承久の変」ね武運つたなく、自害の道を行かざるを得なかった。はっきり言って上皇は腰ぬけのところがあった。関東武士団の力を甘く見て、結局は隠岐に流される運命に至った。後鳥羽上皇の皇子も地方に流されたが、重忠の子たちも、首を切られ、孫は越後に流されたという。

熊沢蕃山は[侍とは“愛”である]と言った。江戸時代第一の名君と言われた「池田光政」に民を思いやる心を教えたのは番山である。惜しいかな番山も晩年、不遇の道を行かざるを得なかった。

イエスキリストは「愛」を教えた。結果十字架の道を行かざるを得なかった。

“愛”を説くものの不遇は致し方ないのであろうか?

法然上人の父は自らを死に至らしめた「敵」への仇討を息子に思いとどまらせ、出家の道を薦めた。法然はすべての人々を救う「弥陀」の慈悲を説いた。しかし晩年は讃岐に流されることに。

不遇な中でも真実を貫き、慈悲慈愛を貫き、義に生きることに人間としての本分があるようにも思う。
真実の忠義、忠孝の道は不遇の中にこそ、その光を放つようにも思う。
その真実が歴史を守ってきたのであろう。

死して真実の道を行く。もちろん不本意ではあろうが、最も価値ある人生の行くべき道がそこにあるように思う。

自己の欲望に取りつかれ、他人を貶めることも平気に生きる人生ほど空しいものは無い。
きれいごとを行っても真実は見抜かれるものである。
真の正義をこの国に確立することが出来れば、
世界の未来に範となる、良き人格の「サムライ」を生み出す、良き国民教育の理念を確立すべきであろう。真の宗教性を育てることかもしれない。
今こそ歴史を総ざらいして、真実を見出す努力に、総力を挙げるべきであろう。

経済や文化の発展もおのずとついてくるだろう。

外国からだけでなく国民からも嫌がられ嫌われるどこかの国のような政治は反面教師とするべきである。

これからの未来世界に、真実の平和と幸福と繁栄をもたらすために真実愛する心を国民にも諸外国にももたらすことのできる、真の人格を共有することのできる、そして真実と義の為に、不法と不義には果敢に戦う勇気をも備えたい。

自らの栄誉と出世のためには、罪なき者も罪に貶め、苦痛に喘ぐ民衆にも容赦ない仕打ちを与える、狂った役人根性を一掃しなければならないであろう。

真実の心を育てたい。

2010年10月11日月曜日

忠孝と言えば

日本精神の、根本は「忠孝」であると書いた。
日本の歴史に残る忠孝の士はだれかと言えば[楠木正成]を挙げる人が多かろう。
わが山田家の先祖「山田次郎重忠」も代表的忠孝の士である。
さて、わが郷土岡山には[楠木正成]と同時代、忠孝の士として「太平記」に登場する、[児島高徳]が有名である。明治の一時期、児島高徳は「太平記」にしか登場しないので、「非実在論」がまことしやかに言われた時期があった。しかし、歴史を訪ね、史跡の現地を訪れると、[児島高徳]の姿がはっきりと浮かび上がってくる。

2010年10月2日土曜日

忠孝の精神が日本人の根本精神

このブログ[山田家のスピリット]とした。スピリットとは、精神とか、魂とか、心意気とか、根本精神というもののように思う。そこで、わが先祖「山田次郎重忠」に学ぶ根本精神、スピリットは「忠孝」の精神かと、この日本人の美徳をもう一度復興し取り戻すことが、の本再生の第一歩であると思う。
沙石集によると山田次郎重忠は[心優しい侍]とある。その母の菩提を弔うために建てた寺がいまの「長母寺]
その、「長母寺」の中興が「無住国師」である。
心優しく母の為に寺まで建てたと言うと、親孝行だが、軟弱な人物かと思う向きもあろうが、「承久の変」で見せた、豪快で勇猛果敢な姿は、さすが武士、忠義に篤く武勇に優れる[侍]の見本たる人物であった。圧倒的な武力で立ち向かってきた関東武士団に、ひるむことなく、勇猛に戦った誇り高き侍であった。
悲しいかな時運は官軍方、後鳥羽院方に無かったのか、無残な最期を遂げるが、不利な情勢の中でも逃げることなく、最後まで戦ったことは、侍の鏡とする内容であろう。
この時の闘いがあればこそ、後醍醐天皇の時代に、[建武の新政]があり、南北朝に分かれたといえども、天皇家が明治の時代もで存続し、明治の親政を作り出していったのである。太平洋戦争で負けたとはいえ、国家体制は維持され、今日の日本があることを考えると、決して無駄な死ではなかったと思い知る。
今世界は、全地球規模での、平和と、真の豊かさ、自由の世界を求めている。そのことのために日本人の特性であり、美徳である「忠孝」の精神を発揮する時であろう!
「忠孝」とは言葉を変えれば、良き家庭人であると同時に善き世界人となる。ということであろう。
親への感謝、家族への深い思いやりの心、その心を地域や世界にまで拡大することが、「忠孝」の真実の意味である。
[忠孝」とは決して強制されるものではない。強制された「忠孝」とは、すでに本当の「忠孝」ではなくなっている。
自然な心で、親を愛し、先祖を愛し、地域や仲間たち、そして全人類にまでその愛する心を拡大出るのが真実の「忠孝」である。
身近に聞く「忠孝」の人物の伝に、その心の奥深いところを感じる。
このブログ、そんなところをこれから書いてい行きたいと思うので、皆さんの応援頼みます。

2010年9月30日木曜日

ブログタイトルを変えました。「山田家のスピリット」に

[山田家のページ]という名前で、ブログ書いていましたが、[山田家のスピリット]とタイトルを変え、現代の世相の問題、時代の問題などへの提言を書いて行くこととしました。
わが先祖「山田次郎重忠」の精神を今に生かす心です。

「心優しい侍」というのが「沙石集」に書かれた無住国師の評である。
承久の変では、官軍方で最も勇猛に戦った、腹の据わった侍だったと書かれている。
その母のために建てたのが「長母寺」であり、無住師は、この長母寺を復興した。
「沙石集」は鎌倉時代を代表する評論で、時代の風潮を的確に評している。
臨済宗の禅を修めたというが、真言にも天台にも、その他八宗を修めたという、その時代超宗派的僧侶であった。

本ブログの主も深く共鳴して、時代を評して行きたい。

2010年9月11日土曜日

太平記の世界

太平記の作者小島法師は児島高徳本人ではないかとの説がある。
太平記の中に忠臣として登場する、児島高徳は、太平記の中にだけしか登場しないので、[架空の人物]との説が、明治の時代に、論議されたことがあるが、児島高徳をめぐる、様々な史実から今は不在論を唱える人はいない。
さて、太平記は後醍醐天皇にまつわる史実がその中心をなしているが、鎌倉後期唐室町期にかけて、南北朝にまつわる歴史がつづられている。
戦後教育では、ほとんど取り上げられることもなく、筆者の年代では、その名前こそ聞いていても、読んだことのあるというものはほとんどいないであろう。このあたりの歴史についてはほとんど空白と言っても良い。日本史を代表する忠臣として尊崇された楠木正成も、その名こそ知っていても、その活躍や歴史などほとんど知らないのが、現代の人々の大半である。
さて、時代は下り、この太平記の世界というか、楠木正成に光を当てたのが、有名な[黄門様]水戸光圀こうであった。
光圀の命で大日本史の編纂が始まった。この大日本史が明治維新の一つのきっかけになったことは言わずと知れたことである。
而して、明治政府は[南朝」正統説が盛んになり、学校教育もそのように教えられた、富国強兵、忠君愛国の資料となり、結果、第二次大戦敗北の結果、逆にそれらがすべて否定され、捨てられてしまった。
日本国の進路が、右へ左へ二分して、右往左往してきた歴史である。
さて、わが先祖山田次郎重忠は、承久の変において、官軍方で獅子奮迅の働きをなして、有名な人物であるが、最後は無念の最期を遂げた。
わが郷土には、後醍醐天皇に忠誠を尽くした、児島高徳がいることは述べたが、児島高徳を産んだ、児島の熊野社は承久の変を起こした後鳥羽上皇の皇子頼仁親王が流され、兄弟の覚仁法親王とともに、児島五流の中興となり、ここから児島高徳も出た。
児島五流の由緒を見ると、頼仁親王はじめ皇子たちも、父の後鳥羽院を諌めたとある。しかし、院は聞き入れられず、承久の変をおこし、結局敗北して隠岐に流されることとなった。
太平記を読むと後醍醐天皇の人となりがよく解かるというが、結構わがままな性格だったという人もいる。
それでも、忠誠を尽くした人々の忠誠心はたたえるべきものであろう。天皇家をないがしろにしてきた歴史は問題である。
さて、歴史をみると、日本の政権の実権は天皇家になくて、祀り上げられるだけの歴史も長く続いたが、政治の実権をめぐっての複雑な歴史が日本史をつづっている。
さて、改めて忠臣とは何か?命をかけて戦った忠臣の心は何を残して来たのか?本当の楽土をそこからどう実現して行くのか?いま本当の意味での忠臣が出なくてはならない時だと、太平記の世界を見ながら思わされる。

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2010年8月30日月曜日

承久の変 その後と児島に流された頼仁親王

承久の変の後、幕府方は戦後処理として、後鳥羽院を隠岐に配流するとともに、ほかの皇子たちも各地に配流された。その中で後鳥羽院の第4皇子、冷泉宮頼仁親王は吉備の児島に流された。ここは変(承久の変)の1年前に、都の騒乱を避けて、桜井宮覚仁法親王が、五流院の検校とやってきていた。
児島と言うのは、吉備の児島で、記紀の国生み神話にも登場する。子島である。
いまは児島半島と言われ陸続きになっているが、この時代までは、完全な島だった。源平合戦で有名な藤戸の闘いは、この児島に陣取った平家と源氏の闘いであった。
文武天皇元年、修験道の開祖役小角が伊豆に配流された時、5人の高弟が、難を避けるため、神輿を船に乗せ瀬戸内海に脱出、3年後の大宝元年に、児島に上陸、福岡村にご神体を安置し、十二所権現を祀って始まったのがはじまりである。
その後天平12年、聖武天皇の時に、児島全島が熊野社に寄進され、児島は社領となり、新熊野山と称された。五人の高弟がそれぞれに、5つの修法を相続し伝授し五院が設けられたので、五流院と称した。
さて、承久の変を前後して桜井宮が検校として、その後頼仁親王が児島に配流、26年をすごしたのち、薨られた。桜井宮には子がなかったので、頼仁親王の子たちが桜井宮の法統を継ぎ、今日まで五流の法統を守ってきた。

さて、後鳥羽院は延応元年隠岐で崩御、その翌年、一周忌に際し、御影塔が建立された。

写真は、児島の熊野社にある後鳥羽上皇の供養塔である。高さが5メートルほどもある立派なもので、国の重文に指定されている、後鳥羽院の供養塔である。
応仁の兵火で廟堂などが焼かれ塔のみが残った。その後の調査で骨が出てきた。塔に向かって右側には分骨を携えてきたであろう従者のものと思われる塚がある。

さて、児島五流尊流院の四世頼宴大僧正を父とし、邑久にあった、和田備後守藤原三宅範長の女を母とし3男として生まれたのが、太平記に記された、後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として誉れ高い[児島高徳]である。
児島の五流尊流院には[児島高徳誕生の碑]がある。

尊流院から1kmほどのところには頼仁親王の稜があり、宮内庁の所管になっている。


山田家の先祖、山田次郎重忠は承久の変で官軍方で戦い、最後は自害して果てたが、承久の乱で難を受けた皇子たちが、児島の地に眠り、児島の地から、忠孝の士が出ていることに不思議な縁を感じる。

ところで、当ページの筆者は母方が、佐々木氏である。佐々木氏の一党佐々木盛綱は源平の合戦、藤戸の闘いで功あり、児島の迫川庄をいただき、二男の佐々木信実がそれを継いだその女が頼仁親王の子道乗僧正の室となり6人の子を産んで五流を継いだとある。
わが佐々木氏は阿波の三好、晝間の城主であったとのことで、それ以前の家系の歴史は定かではないが同じ佐々木の一党として縁を感じる。

同じ記事を[吉備楽土]に写真入りで投稿しています。

2010年7月22日木曜日

山田方谷のメッセージ

岡山にいると[山田方谷]のことをよく聞く。
調べて見ると、[山田方谷]も尾張山田氏の末裔の一人、ちょっと遠いようだが一族である。
岡山に「岡山人物銘々伝を語る会」という、岡山出身の偉人や、有名偉人の伝記を研究するクラブがある。
ここで先日、7月の例会だが、地元岡山の山陽学園教授の太田健一先生の話があった。
[山田方谷のメッセージ]という内容で、面白かった。
山田方谷と言うと、幕末期、十万両の借財にあえぐ備中松山藩を改革し、十万両の財を蓄えた人物として有名だが、掛け値なしの人物伝を資料に基づいて解説してくれた。
詳しくは[吉備楽土」に書いたので参照あれ。
岡山では[山田方谷]を大河ドラマにとの運動もある。財政改革必須の日本の政治経済状況で、山田方谷のメッセージはとても参考になる。

2010年7月13日火曜日

がんばれ“山田”

最近、[山田]姓の方と出会うことが、なぜか多い。
テレビやニュース、出版界でも[山田さん]がやけに気になる。
どうやら、社会の中堅で活躍している人が多いようである。

山田家のルーツはわが尾張の山田姓以外は良く解からないのだが、研究している人があれば教えてほしい。
現在在住中の岡山にも、結構山田姓が多い。先日の選挙でも山田姓の方が頑張っていたが、ツーつはどちらなのでしょうか?機会があれば聞いてみたい。
旅先で偶然出会った方や、今年は納税申告で隣の人が山田さんだったり、何か親しみを感じています。
いま世の中も、混迷を深めていますが、山田姓の方頑張りましょう!

鎌倉時代の随筆集として有名な、無住国師の書いた「沙石集」に」は、山田次郎重忠は[心優しい侍]と言われていたが、信仰心篤く、その母のために建てた寺が、「長母寺]である。無住国師はこの寺で「沙石集」をしたためた。
[長母寺]のほかにも多くの寺院を建てたとある。一方武勇にも優れ、承久の変においては官軍方で活躍したことは、これまで紹介したとおりである。
混迷の時代、山田の活躍がのぞまれているように思う。
がんばれ「山田」!

2010年7月8日木曜日

忠臣とは

わが山田重忠公は歴史に残る忠臣としてたたえられているが、日本史上、もっとも忠臣としてたたえられている代表的人物の一人が、後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成であろう。
じっさい、後醍醐天皇はかなりわがままな人物だったと伝えられるが、それでも、忠誠を尽くした、楠木正成は実に立派と言わざるを得ない。
楠木正成を祀る湊川神社が神戸市の元町にあるが、ここは黄門様で有名な水戸光圀公が佐々木介三郎に命じて、楠木正成の供養塔を整備したのが始まりという。
承久の乱に始まる、朝廷側の親政を求める戦いは、建武の新政を持って一時なるかと思われたが、その後の政治に失敗した。武家社会への対応がうまくいかず、結局南北朝時代を迎え、結局室町幕府に従う形で統一がなされなければならなくなった。
承久の乱の時の後鳥羽上皇も時局を見る目がなかったが、ある面おろかである。しかしそのような君に命がけで仕える忠臣の姿は、一面愚かに見えるが美しい。忠誠の心が美化されてきた。
もう一度わが民族の美徳である[忠」について考えてみよう。

2010年6月26日土曜日

承久の変で児島に流された頼仁親王と児島高徳

児島の熊野神社に行ってきました。
ここは承久の変の後、北条泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐に、皇子の冷泉院頼仁親王は吉備の児島の熊野社に流されます。
児島の熊野社は、役行者が冤罪で伊豆の大島に流された時、何が熊野権現に及ぶことを恐れて、五流の門弟たちが御神体とともに児島の地に降り立ち、新熊野三山として開基した。
承久の時、後鳥羽天皇の皇子桜井宮覚仁法親王が下向され、頼仁親王の子道乗大僧正を附弟として尊龍院を継ぐようになる。その道乗大僧正の後を継いだ頼宴大僧正の三男が後醍醐天皇に忠誠をつくした児島高徳である。
今は修験道の総本山となっている五流尊龍院には児島高生誕地の碑がある。
吉備の児島に訪問記を書いているのでご覧あれ。
わが山田家が児島にあるのは何かしら縁を感じているところである。
児島高徳生誕地の碑

頼仁親王稜

2010年6月25日金曜日

少年日本史に見る山田次郎重忠

手元に昭和45年に皇学館大学の平泉澄教授が書いた[少年日本史」(昭和49年再版)がある。
その中から、山田次郎重忠に関する記述の部分を書き出してみよう。

少年日本史390頁、有名な二位の尼政子の関東の将氏に語った部分です。


「一同のもの、よくよく承れ。汝ら、今日の収入と言い。冠位と言い、すべて頼朝公のおかげではないか。そのご恩は、山よりも高く、海よりも深いであろう。それを忘れて、京へ参り、官軍に着くか。それとも頼朝公の御恩を考えて、鎌倉方としてご奉公するか、態度をはっきり決めて、ただ今ここで申し切れ。」



この言葉に感激した関東武士たちは、早速軍勢を整え出発しました。これにひきかえ官軍は行動が敏速でなく、関東の軍が遠江に入ってようやく教を出発したので、両軍の決戦は木曽川において行われることになりました。




官軍は木曽川を固めました。関東の兵は、東海・東山両道の軍ひとつになって、木曽川に迫ります。官軍の守りは、大井戸の渡より崩れ、賊軍は木曽川の右岸に出ました。下流を守っていた官軍は、腹背ともに攻撃を受ける形となり、あわてて陣を捨て、京へ退きます。しかしその中に鏡右衛門尉久綱、自分の名を墨黒々と大きく旗に記して川岸に立て、勇敢に戦って討ち死にしたのも、目覚ましく、ことに味方の総崩れにっ崩れ去ったのを尻目にかけて踏みとどまった山田次郎重忠の豪胆に至っては、 千載の後にも、人の心を激発するものがあります。重忠はわずか九十騎で、川のはたに馬を控え、敵を待っていました。賊軍幾万、向こうの岸へ現れ、之を見て、疑いを持ちました。
 「それなるは、敵か?味方か?」
 「味方だ。」
 「味方では、どなたですか?」
 「本当は敵だ。」
 「敵ではどなた?」
 「尾張の国の住人山田次郎重忠ですわい。」
賊軍からかわれて腹を立て、大軍一度に川を渡って攻めかかる。それをさんざんに射取り、上がってくるものは斬り捨てる。やがて重忠、兵をまとめて引き揚げました。
第二の戦線としては、勢多、宇治が当然選ばれました。山田次郎重忠は勢多を守り、から傘をさして兵を指揮しました。ここの守りは固かったが、戦いは宇治の手から敗れました。恐るべき大雷雨によって一丈三尺ばかりの増水に、溺死も多かったが、それに屈せず賊軍宇治川を渡るに及んで、勝敗は決しました。官軍一方の大将藤原朝俊、潔く討ち死にすれば、山田重忠も、三浦胤義も奮戦して倒れました。北条泰時は京都へ入って戦後の処分をします。・・・

[少年日本史]は皇學館大學の教授であった平泉澄氏が戦後教育の中で失われた、忠や孝の心を取り戻すべく書いた本です。中学生・高校生を対象に書かれていますが、大人が読んでも良い。


2010年6月21日月曜日

吾妻鏡に見る山田次郎重忠

「吾妻鏡」の第25、承久3年の6月3日の項に、官軍方に山田次郎重忠の名がある。
5日、洲俣で両軍対峙し、6日、両軍愛戦ったが官軍方は敗走し、ただ山田次郎重忠が一人留まって戦ったが・・ とある。
その後、10日、勢多に山田次郎重忠が派遣されたとの記述がある。
結局、官軍方は敗走して、総崩れとなり、御所に上るが、御所の門は固く閉ざされ、重忠は洛西にのがれ自刃することになる。

この承久の変で後鳥羽上皇は隠岐に流され、冷泉院【頼仁親王】は児島に流された。

2010年6月20日日曜日

坂越(赤穂)に行って秦河勝の墓と児島高徳の墓

赤穂の坂越に行ってきました。その内容は吉備楽土に書いて行きますのでご覧ください。
さて、この坂越の展示館で署名をしていたら、いろいろと詳しく説明をしてくださっていた女性の方が「私も実家が山田なんです」と言ってくださり、とても縁を感じました。
ここ坂越は、秦氏の頭領として聖徳太子の側近となった秦の川勝の墓が祀られているところとして有名ですが、どうじに、南北朝時代の忠君愛国尊王の士、児島高徳の墓がある地としても有名です。
わが先祖、山田重忠も官軍方で戦い、戦前の教科書では、代表的中心として教えられていたことを考えると、何か同族のような感じを受ける。
児島高徳の墓がここ坂越にあることは、秦氏と、忠君の祖との繋がりを感じさせられるものである。
この地を訪れて、愚直に天を信じ、忠孝を尽くす、誠実さを感じ取ることができた。
今の日本に一番大切なものがここのあると感じた。
機会があれば皆さんも訪問して見られることをお勧めする。
秦河勝の墓と言われる生島、この地にたどりついた河勝が生きて渡ったので生島と言う。木を切ることもこの島に渡ることも禁じられてきた。

児島高徳の墓

2010年6月13日日曜日

山田方谷先生とのつながり 尾張山田氏

岡山県と言えば、幕末の備中松山藩の藩政改革を成功させた山田方谷先生が有名だが、当初わが山田家とは関係がないと思っていた。しかしいろいろ家系図を調べて行くうち、同じ尾張山田氏の流れであることがわかった。
山田方谷先生の家系は清和源氏満政流、満政から5代目、山田重遠の3男に大和守重弘という人があり、この嫡男駿河守重英が、寿永3(1184)年に源範頼に従って中国地方へ転戦、その戦功によって備中国英賀郡(阿賀郡)28ヶ村を与えられて、文治3(1187)年に佐井田(才田)城主となっています。
http://gos.but.jp/houkoku.htm
清和源氏の家系は以下参照
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/seiwa_genji/genji_seiwa1.html
わが尾張山田氏は、重遠の子、重弘の兄弟、重直の孫が次郎重忠ですので、尾張山田氏から備中に下って、血統をつないできたのが山田方谷先生と言うことになり、同じ家系であることを確認しました。
また、重忠の先代、重満の兄弟が足助重長で、足助氏とも近い間柄になっています。
いずれにせよ、尾張山田氏は、尾張の守護として、全盛を誇っていた時代があり、そこから全国に散らばって行ったものと思われます。
全国の山田姓の、かなりの部分が尾張山田氏の流れをくむものと思われます。
ほかにも、わが家系は尾張山田氏だという方があれば、ぜひご紹介いただきたいとお思っています。
このブログに書き込んでいただくか
キビノコジマまでメールください。

2010年6月11日金曜日

最近気になる山田姓 ほんものの侍とは

最近何かと「山田」姓が気になる。テレビドラマでも、何かよく「山田」が登場するような気がして、気になる。NHkの朝ドラでも「山田」が登場した。タレントの中にも時々山田がいる。
歴史に関心を持って、最近本よく読むようななったが、本の執筆者の中にも山田姓が多い。そう感じるだけであろうか。最近ことさらに「山田姓」を気にしているからだろうか?
皆さんの処の「山田」はどうですか?

さて、わが先祖の「山田次郎重忠」、重忠が開いた長母寺の中興の祖「無住国師」はその著書、「沙石集」の中で、重忠のことを「こころやさしき侍」と書いている。
現在我が家のある岡山の、偉人の一人。「熊沢蕃山」は、その著の中で[侍とは“愛”である。]と書いている。平生は、作物を作るでなし、婦女のように衣を縫うでもなし、侍にあるのは“愛”だけだと、そしていざという時には武勇を発揮する。それが文武二道である。と説いている。
それに照らせば、わが先祖[山田次郎重忠]は、模範的な侍であったと言える。
熊沢蕃山については私のブログ「吉備楽土」にすこし詳しく書いているので参考にしてほしい。
「中江藤樹が熊沢蕃山に教えた“心法”の士道」
http://kibinokojima.blogspot.com/2009/12/blog-post_04.html
今は、政治家が[侍]か?
真の侍と言える指導者はいないのか?
いると信じよう!

2010年6月3日木曜日

政局の混迷 徒然に思うこと

鳩山首相が小沢幹事長ともどもに辞任した。
政局の混迷、ここの至るかと思う。
自民党の末期、短期政権が続き、いよいよそれに耐えかねて、民主党に政治を託した国民は、本当にがっかりしたのだと思う。
鳩山さんには少々期待した向きもあったのだが、結局その本領を発揮することなく終わってしまった。
私は、岡山在住で、岡山県からは多くの偉人が出ていると、偉人伝を研究したりして見ているが、鳩山家は岡山県北の勝山が父祖の地で、曾祖父の鳩山和夫は日本の最初の留学生としてアメリカにわたり法学を習得、日本最初野法律事務所をはじめ、日本最初の法学博士になるなどその果たした功績や人間性を見ると、祖父の鳩山一郎氏を含め何かしてくれるのではと期待していた。今回の事態は甚だ残念と言うしかない。
ここでわが先祖、山田次郎重忠、承久の変で官軍方で獅子奮迅の働きをしたが、悲しいかな、時の官軍が奉じた後鳥羽上皇に運がなかった。結果、時運は鎌倉方にあった。墨俣で戦い、瀬田で戦い、御所に駆け付けたが、御所の門は固く閉ざされたままだった。最後御所を守って戦おうとしたのに、口惜しい思いをもって、落ち延び自害した。
その後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、身内も各地に流された。
その一人、頼仁親王が流されたのが「児島」(現在の岡山県倉敷市児島)である。
わが故郷はこの児島であるが、何か縁があるのかもしれない。
さて、わが先祖の悲劇を思いながら、いまの混迷の政局に何か、道はないものかしきりに考えている。

2010年5月22日土曜日

山田家のルーツ
我が家の本家は旧真備町岡田にある
戦国時代、織田信長と戦って、備中にのがれて来て岡田の地にすむようになったといわれている。
我が家は、祖父が山田家の養子に入って、その後、本家の後は弟が採るよう言いなったので生れ故郷の児島に帰ってきたと聞いている。
先祖の墓参りに本家を訪ねて家系図を見せてもらった。
曾祖父は相当山田家の家系に誇りを持っていたらしい。
承久の変の時、官軍方で戦った山田次郎重忠は、戦前は特に忠君愛国の士として高く評価取り上げられていたとのことである。
分家して出る時、祖父は曾祖父から家系図の写しをもっていくように言われたらしいが、なぜか辞退してきたらしい。

2010年5月20日木曜日

山田次郎重忠ゆかりの長母寺

名古屋の「えーなも」という、地域紹介のページに
山田郷と長母寺という紹介のページがあり、山田郷と山田次郎重忠、長母寺、その後の無住国師のことなど書かれている。写真もあるので、おすすめです。
http://www.a-namo.com/ku_info/higasiku/pages/choboji.htm

なかなかこのページ進まないのですが、山田家のルーツ探しも大切なので、すこしづつ書き込んでいきます。
コメント歓迎!

2010年3月27日土曜日

山田次郎重忠とは

山田次郎重忠とは
Wikipediaにはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/山田重忠
尾張山田庄の地頭とある。
後鳥羽上皇が鎌倉の北条氏に対し西国の武士たちに呼びかけて、幕府追討の命を出して戦ったのが「承久の変」である。
このころ尾張山田氏は「京」とのつながりが深く、官軍方についたと思われる。
この時、鎌倉では尼将軍といわれた「北条政子」が実権を握っていたが、幕府追討の令が下ったことに怖気ついていた、鎌倉の武士団を鼓舞し、官軍に立ち向かうことを決意させていった。
自らの存亡をかけた鎌倉武士団にひきかえ官軍は「京」をないがしろにしてきた、鎌倉への不信から発した「上皇」の命であったが、まとまりに欠け、明らかに劣勢であった。
そのような中で山田次郎重忠は墨俣の戦いや勢田川の戦いなどで奮戦し、三浦胤義らとともに最後まで戦って最後は自害して果てた武将である。
承久の変については Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱 参照

2010年3月24日水曜日

わが先祖「山田次郎重忠」と山田家のルーツ

山田次郎重忠
わが先祖の名前である。
尾張山田氏
清和源氏満政流

かって「承久の変」において官軍方につき
獅子奮迅の戦いをしたが
悲しいかな、幕軍に敗れ
自害して果てた。

無住国師の書いた「沙石集」には
「心優しい侍」とある。
勇敢且つ心優しい侍

今も重忠が建てた「長母寺]が
名古屋市北区にある。
重忠が母のために建立したという

尾張山田庄
山田家の故郷

わが先祖「山田次郎重忠」と
山田家のルーツを追ってみることにする。