2010年7月22日木曜日

山田方谷のメッセージ

岡山にいると[山田方谷]のことをよく聞く。
調べて見ると、[山田方谷]も尾張山田氏の末裔の一人、ちょっと遠いようだが一族である。
岡山に「岡山人物銘々伝を語る会」という、岡山出身の偉人や、有名偉人の伝記を研究するクラブがある。
ここで先日、7月の例会だが、地元岡山の山陽学園教授の太田健一先生の話があった。
[山田方谷のメッセージ]という内容で、面白かった。
山田方谷と言うと、幕末期、十万両の借財にあえぐ備中松山藩を改革し、十万両の財を蓄えた人物として有名だが、掛け値なしの人物伝を資料に基づいて解説してくれた。
詳しくは[吉備楽土」に書いたので参照あれ。
岡山では[山田方谷]を大河ドラマにとの運動もある。財政改革必須の日本の政治経済状況で、山田方谷のメッセージはとても参考になる。

2010年7月13日火曜日

がんばれ“山田”

最近、[山田]姓の方と出会うことが、なぜか多い。
テレビやニュース、出版界でも[山田さん]がやけに気になる。
どうやら、社会の中堅で活躍している人が多いようである。

山田家のルーツはわが尾張の山田姓以外は良く解からないのだが、研究している人があれば教えてほしい。
現在在住中の岡山にも、結構山田姓が多い。先日の選挙でも山田姓の方が頑張っていたが、ツーつはどちらなのでしょうか?機会があれば聞いてみたい。
旅先で偶然出会った方や、今年は納税申告で隣の人が山田さんだったり、何か親しみを感じています。
いま世の中も、混迷を深めていますが、山田姓の方頑張りましょう!

鎌倉時代の随筆集として有名な、無住国師の書いた「沙石集」に」は、山田次郎重忠は[心優しい侍]と言われていたが、信仰心篤く、その母のために建てた寺が、「長母寺]である。無住国師はこの寺で「沙石集」をしたためた。
[長母寺]のほかにも多くの寺院を建てたとある。一方武勇にも優れ、承久の変においては官軍方で活躍したことは、これまで紹介したとおりである。
混迷の時代、山田の活躍がのぞまれているように思う。
がんばれ「山田」!

2010年7月8日木曜日

忠臣とは

わが山田重忠公は歴史に残る忠臣としてたたえられているが、日本史上、もっとも忠臣としてたたえられている代表的人物の一人が、後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成であろう。
じっさい、後醍醐天皇はかなりわがままな人物だったと伝えられるが、それでも、忠誠を尽くした、楠木正成は実に立派と言わざるを得ない。
楠木正成を祀る湊川神社が神戸市の元町にあるが、ここは黄門様で有名な水戸光圀公が佐々木介三郎に命じて、楠木正成の供養塔を整備したのが始まりという。
承久の乱に始まる、朝廷側の親政を求める戦いは、建武の新政を持って一時なるかと思われたが、その後の政治に失敗した。武家社会への対応がうまくいかず、結局南北朝時代を迎え、結局室町幕府に従う形で統一がなされなければならなくなった。
承久の乱の時の後鳥羽上皇も時局を見る目がなかったが、ある面おろかである。しかしそのような君に命がけで仕える忠臣の姿は、一面愚かに見えるが美しい。忠誠の心が美化されてきた。
もう一度わが民族の美徳である[忠」について考えてみよう。