2010年10月28日木曜日

まだまだ続く反日デモ

中国でまだまだ反日デモが続いているらしい
中国でも、特に内陸部で多く起こっている。
先日上海から来ている留学生と話す機会があって聞いて見たが、上海や北京では、全くそのような動きは無く、平穏そのものらしい。
日本人とよく接する機会の多い地域では、日本人の礼儀正しさや清潔さをみて、日本人に好意を抱いている人たちが多いので、過激なデモなど、考えられないそうである。

この反日デモ、官製といううわさもあり、反政府デモでは取り締まられるので、[反日]を掲げた実は「反政府]デモだという向きもある。結構当たっているのかもしれない。

いずれにせよ、今日本国民は反中感情が高まっている。尖閣諸島で巡視艇にぶつかってきた漁船の映像ビデオの公開問題で揺れている。「転落した海上保安庁員を漁船員がモリで 突いている映像がある」のではという情報も本当かどうかわからないが話題になっている。
海上保安庁は否定しているが、それならうそかまことか映像をはっきり見せてほしいものである。
本当に嘘でなかったらその部分はカットするか修正して提出するかな?

話をした留学生も「困ったもの」と言っていた。日本に来て思うのは、本当の意味で両国は平和に友好的にならないといけない。「今の中国の行き方は・・」とお茶を濁したが、本当に世界を知った世代が次世代のリーダーにならないと、中国は変わらないのかなとも思ったが、今中国の若い世代が、インターネットなどを通して、確実に外の世界を知って、党の言い分だけを真に受けている時代は終わってしまっていると思った。

2010年10月20日水曜日

反日デモをどう見る

中国で反日デモが続いている。
日系のスーパーや、日本車が攻撃のやり玉に挙がっている。これは官製デモだという向きもある。
ことの本質な何なのか?
中国の民主化運動家がノーベル賞を取り、温家宝首相は[言論の自由]を言った。しかし、共産党はお構いなしのようである。
共産党が問題である。もはや指導部もどうすることもできない力を持っている。指導部はまだ、外国とも接し、ことの常識をわきまえるすべを多少は知っているようだが、実際の権力を執行している、共産党は完全に権力機関として、強圧、暴力、謀略、不法が常になって、その横暴な権力をほしいままにしている。
長い間の一党独裁がそうさせてしまったのであろう。しかも思想が、[共産主義]唯物論、無神論、暴力革命肯定理論と来ている。毛沢東による「文化大革命」は、共産主義の恐ろしさを身にしみて感じさせられたが、その当時紅衛兵として暴虐の限りを尽くした、その時代の若者が、今は社会のいたるところで中枢になっている。
その時代に青少年で、残虐な行為を見てきた者たち、共産思想、毛沢東思想を骨の髄まで教育された者たちが、共産党など社会の実権を握る位置を占めている。
もはや救い難い状況になっているのが中国の実態である。
このままでは中国は崩壊する。ますます横暴化して、手がつけられなくなる。それを何とか防ぐ手立てを考えなければならないであろう。
これは中国の民衆にっても、アジア、世界全体にとっても、そして我知らず過ちを犯し続けている彼ら自身にとっても重要な問題だと言わざるを得ない。

2010年10月19日火曜日

大臆病の君に騙られたわ

鎌倉方の大軍が押し寄せる中、只一人勇敢な戦いをした山田次郎重忠であったが、宇治川の戦いで敗れて、御所において最後の戦いをせんとしたとき、御所の門は固く閉ざされて、入ることが出来なかった。山田次郎重忠は「大臆病の君に騙(かた)られたわ」と憤慨したという
情勢不利と見た後鳥羽上皇は幕府方に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てだとして、北条義時追討の宣旨を取り消し、官軍方で戦った藤原秀康や三浦胤義らを逮捕するようにとの宣旨を下したという。これが本当だとすれば、そんな君のために命を捧げて、さぞかしその無念はいかばかりであったろうかと思う。
しかし京に入った北条義時は、その戦後処理において、後鳥羽院は隠岐に流され、後鳥羽方で戦った者たちも多く処断された。
この結果朝廷は完全にその力を失い、鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置し、鎌倉幕府が完全に支配する体制を作り上げた。
以来、後醍醐天皇による建武の新政はあったが、その後徳川幕府が滅びるまで武家政治が続いて行くのである。
大臆病の君に騙られた、山田次郎重忠の無念の心は、その後どのような結実を見るのだろうか?

2010年10月17日日曜日

反日デモ 国民を正しく教育できないところに未来は無い

日本の中国大使館へのデモは静かに行われたそうだが、中国でのそれは、破壊行為でとんでもない状況だと聞く。
ちょっと恐ろしい状況、背後で誰が何を狙っているのかわからないが、日頃の鬱積のはけ口になっているのかもしれない。
民主化運動家にノーベル平和賞が授与されて、行く道の無くなった指導部の一部が腹いせまひれに行っているのか?それぐらいならまだいいが、
良識をわきまえられない、人々の狂気の行動を見ると、暗澹たる気持ちがしてくる。

中国留学生が日本に来て、実感するのは、日本人の人のよさだという。皆人間としての節度をわきまえている。忘れ物があれば必ず届けてくれる。わずかのお金でもごまかさない。正直な国民性である。
これは国民の、道徳性、倫理性の教育が行きとどいている結果である。

だから中国の富裕層、子女を日本に留学させられるような階級層は、事実を知っている。今の共産党政権下では、そのことを表向き表明は出来ないだろうが、真実はもはやごまかせないのである。

だからといて今の中国のことをことさらに悪く言うつもりもない。要は未来に残る善民教育を、いかに推し進めるかである。敬天愛人愛国の精神をしっかりと教えることだろう。
忠孝の精神の根本をしっかりと教えることである。忠孝の精神の根本は、親の立場、師の立場、指導者の立場にたつことである。
そして指導者の資質は「愛」にある。

2010年10月15日金曜日

心優しく、民のわずらいを知る侍だった

「沙石集」にある、[山田次郎重忠]についての無住国師の記述である。

惜しいかな、重忠は、後鳥羽上皇の起こした「承久の変」ね武運つたなく、自害の道を行かざるを得なかった。はっきり言って上皇は腰ぬけのところがあった。関東武士団の力を甘く見て、結局は隠岐に流される運命に至った。後鳥羽上皇の皇子も地方に流されたが、重忠の子たちも、首を切られ、孫は越後に流されたという。

熊沢蕃山は[侍とは“愛”である]と言った。江戸時代第一の名君と言われた「池田光政」に民を思いやる心を教えたのは番山である。惜しいかな番山も晩年、不遇の道を行かざるを得なかった。

イエスキリストは「愛」を教えた。結果十字架の道を行かざるを得なかった。

“愛”を説くものの不遇は致し方ないのであろうか?

法然上人の父は自らを死に至らしめた「敵」への仇討を息子に思いとどまらせ、出家の道を薦めた。法然はすべての人々を救う「弥陀」の慈悲を説いた。しかし晩年は讃岐に流されることに。

不遇な中でも真実を貫き、慈悲慈愛を貫き、義に生きることに人間としての本分があるようにも思う。
真実の忠義、忠孝の道は不遇の中にこそ、その光を放つようにも思う。
その真実が歴史を守ってきたのであろう。

死して真実の道を行く。もちろん不本意ではあろうが、最も価値ある人生の行くべき道がそこにあるように思う。

自己の欲望に取りつかれ、他人を貶めることも平気に生きる人生ほど空しいものは無い。
きれいごとを行っても真実は見抜かれるものである。
真の正義をこの国に確立することが出来れば、
世界の未来に範となる、良き人格の「サムライ」を生み出す、良き国民教育の理念を確立すべきであろう。真の宗教性を育てることかもしれない。
今こそ歴史を総ざらいして、真実を見出す努力に、総力を挙げるべきであろう。

経済や文化の発展もおのずとついてくるだろう。

外国からだけでなく国民からも嫌がられ嫌われるどこかの国のような政治は反面教師とするべきである。

これからの未来世界に、真実の平和と幸福と繁栄をもたらすために真実愛する心を国民にも諸外国にももたらすことのできる、真の人格を共有することのできる、そして真実と義の為に、不法と不義には果敢に戦う勇気をも備えたい。

自らの栄誉と出世のためには、罪なき者も罪に貶め、苦痛に喘ぐ民衆にも容赦ない仕打ちを与える、狂った役人根性を一掃しなければならないであろう。

真実の心を育てたい。

2010年10月11日月曜日

忠孝と言えば

日本精神の、根本は「忠孝」であると書いた。
日本の歴史に残る忠孝の士はだれかと言えば[楠木正成]を挙げる人が多かろう。
わが山田家の先祖「山田次郎重忠」も代表的忠孝の士である。
さて、わが郷土岡山には[楠木正成]と同時代、忠孝の士として「太平記」に登場する、[児島高徳]が有名である。明治の一時期、児島高徳は「太平記」にしか登場しないので、「非実在論」がまことしやかに言われた時期があった。しかし、歴史を訪ね、史跡の現地を訪れると、[児島高徳]の姿がはっきりと浮かび上がってくる。

2010年10月2日土曜日

忠孝の精神が日本人の根本精神

このブログ[山田家のスピリット]とした。スピリットとは、精神とか、魂とか、心意気とか、根本精神というもののように思う。そこで、わが先祖「山田次郎重忠」に学ぶ根本精神、スピリットは「忠孝」の精神かと、この日本人の美徳をもう一度復興し取り戻すことが、の本再生の第一歩であると思う。
沙石集によると山田次郎重忠は[心優しい侍]とある。その母の菩提を弔うために建てた寺がいまの「長母寺]
その、「長母寺」の中興が「無住国師」である。
心優しく母の為に寺まで建てたと言うと、親孝行だが、軟弱な人物かと思う向きもあろうが、「承久の変」で見せた、豪快で勇猛果敢な姿は、さすが武士、忠義に篤く武勇に優れる[侍]の見本たる人物であった。圧倒的な武力で立ち向かってきた関東武士団に、ひるむことなく、勇猛に戦った誇り高き侍であった。
悲しいかな時運は官軍方、後鳥羽院方に無かったのか、無残な最期を遂げるが、不利な情勢の中でも逃げることなく、最後まで戦ったことは、侍の鏡とする内容であろう。
この時の闘いがあればこそ、後醍醐天皇の時代に、[建武の新政]があり、南北朝に分かれたといえども、天皇家が明治の時代もで存続し、明治の親政を作り出していったのである。太平洋戦争で負けたとはいえ、国家体制は維持され、今日の日本があることを考えると、決して無駄な死ではなかったと思い知る。
今世界は、全地球規模での、平和と、真の豊かさ、自由の世界を求めている。そのことのために日本人の特性であり、美徳である「忠孝」の精神を発揮する時であろう!
「忠孝」とは言葉を変えれば、良き家庭人であると同時に善き世界人となる。ということであろう。
親への感謝、家族への深い思いやりの心、その心を地域や世界にまで拡大することが、「忠孝」の真実の意味である。
[忠孝」とは決して強制されるものではない。強制された「忠孝」とは、すでに本当の「忠孝」ではなくなっている。
自然な心で、親を愛し、先祖を愛し、地域や仲間たち、そして全人類にまでその愛する心を拡大出るのが真実の「忠孝」である。
身近に聞く「忠孝」の人物の伝に、その心の奥深いところを感じる。
このブログ、そんなところをこれから書いてい行きたいと思うので、皆さんの応援頼みます。