2011年3月12日土曜日

大地震の被害者に

凄惨な、被害の状況が時々刻々伝えられています。
一瞬にして、生活の基盤も何もかも失った人たちの方を思うと、本当に胸が痛みます。
とてつもなく多くの犠牲者の方々が・・・・
こういうときこそ全国民がひとつになって、悲劇を乗り越えていかなければと思う。
政界も無駄な争いをやめてたひたすら被災者の救援に当たるべきであろう。
家族を失い、家も生活の基盤も失った人々が、立ち上がるには膨大な力を必要とするでしょう。
国民みなが、自分の利害を捨てて、被災者の悲劇を自分のものとして、支援していくことが求められていると思う。
今こそ日本人の良心が発揮されるときではないのか。

2011年3月4日金曜日

先祖の墓に行ってきました 旧真備町岡田 横溝正史疎開の家 岡田廃寺など

先日旧真備町で集まりがあり、その帰り道真備町岡田にある、先祖の墓に参ってきました。
わが山田家の先祖山田次郎重忠は、鎌倉時代、尾張の山田庄の地頭であったが、承久の変の折後鳥羽上皇方につき獅子奮迅の戦いにもかかわらず、無念な最期を遂げその孫が後を継いだとある。
さて、その後戦国時代、織田信長と墨俣で戦い敗れたのち、備中に逃れ住んだのが山田家のルーツと聞いている。何年か前に本家を訪ね、墓参させてもらった。その後本家の一家は事情があり転居、その後音信がないので、気になっていた。
墓の位置は知っていたので、訪ねたが曽祖父の墓標がどうしても見つからない。一族全体の墓地なので、すべての先祖に参りる心で参拝して帰る。
帰り道、すぐ近くが「横溝正史」の疎開していた家があり、訪ねる。

江戸期の地理学者「古川古松軒」もこの地の出身で、その遺跡が残っている。
さらに進むと「岡田廃寺」の案内、案内板に従って行ってみるがよくわからない地元の婦人に聞いたら親切に教えてくれた。椋の巨木があるという。
教えてもらった通りに行くと「あった あった」
少し小高くなった丘の上に椋の木がたたずまい社があった。


ここは白鳳末期の創建で吉備真備の一族が建てたと言われている。この地域の歴史と文化を象徴する遺跡の一つである。

山田家の先祖がはるか尾張からこの地にたどりつき、代をついて今の自分があることを思うと感慨深い。吉備王国の時代から深い意味のあるこの地域である。
同好の仲間と歴史探訪会を組織ているが、一度また仲間と尋ねてみたいところである。

2011年1月31日月曜日

サッカーアジアカップ優勝を見て

ザッツジャパンがアジアカップで優勝した。
日本全体に大きな力を与えてくれた。
これは何と言っても、監督、選手、そしてサポーターが一つになった勝利である。
試合の様子を見たが、それぞれがそれぞれの役割をはたして、勝利に導いた。
この心意気が明日の日本を創る。

頑張れニッポン
このスピリットを、あらゆる面に生かしていければ日本は再生する。

いま日本に必要なのは、国民精神の復興と、団結である。
強者も弱者もない。勝ち組と負け組もない。皆が一つの家族のようにその役割をはたして、互助の精神が復興すれば、日本は本来の力を発揮する!

いい試合を見せてくれた。

2011年1月16日日曜日

歴史に学ぶ

「少年日本史」という本がある。以前にも引用したが、皇學館大學の教授をしておられた平泉澄先生が、その時代の若者があまりにも歴史を知らず、日本人としての誇りも名に持たなくなっているこ戸を憂え、正しい歴史を伝えること、とりわけこれからの未来を担う若者に、誠実に生きること勇気を持って生きてきた先人の歩みを通して、未来に希望を持って生きる生きるkとができるようにと精魂込めて書き残してくれた労作である。
第2次大戦で敗北した日本は、正しい日本人としての教育を失ってしまった。この国のために、またこの国の人々のために誠実に生きてきた伝統を失ってしまった。それが今の時代の限界をつくってしまった。
もう一度正しい日本の歴史を学びなおしてみることが必要だろう。

今筆者は、神功皇后について学びなおしている。日本の歴史上、困難な時代は女性が登場して、困難を乗り越えた。今多くの研究者の方々の努力で「神功皇后」の実在性とその実像が明らかになってきている。いずれ整理してこのブログでも紹介してみたい。

2011年1月12日水曜日

正しい日本人となるためには日本歴史の真実を知りこれを受け継がねばならない

タイトルは「少年日本史」に書かれた平泉澄先生のはしがきの一節である。
「人が尊いのはそれが誠実であるからだ。誠実を守るためには勇気が必要である。日本の歴史は誠実と勇気の決勝だ。」このように歴史を学ぶことの必要性、大切さを説いている。
「少年日本史」は、昭和45年に皇学館大学の教授であった平泉澄先生が、次代を担う日本の若者が日本の歴史の真実を知らないことを憂え、渾身の力を込めて書き上げられたものである。
日本人として当然知っているべき日本の歴史と人物のことがあまりにも教えられていない。
いまわれわれが生きていることが出来るのは、誠実に生きてきた歴史の先人たちのおかげである。
その歴史の真実を学び、また未来を担う若者たちに教えていくのが我々の果たすべき使命ではないだろうか。

2011年1月1日土曜日

山田家のスピリットで

あけましておめでとうございます。
平成23年辛卯 2011年を迎えました。
内外ともに困難な状況の続く世の中です。
山田家のスピリットで、困難を乗り越える年にしたいと意気込んでいます。
安閑としてはいられない状況ですが、こんな時代こそその精神を生かせる時代だと思って挑戦していこうと決意しています。
今年も1年「山田家のスピリット」をよろしくお願いいたします。

2010年12月16日木曜日

和気清麻呂と山田次郎重忠

和気清麻呂と言えば平安京を造営した人物として、また弓削道鏡事件の時、宇佐八幡の神勅を奏上して皇統を守った人物として有名であるが、山田次郎重忠とどのような関連性があるのだろうか?

私は、その精神において極めて共通する部分を多く感じる。
山田次郎重忠は「心優しく民の煩いを知る侍」だったが、その民を思う心の優しさや忠君の精神が極めてよく似ている。
そしてその宗教性である。山田次郎重忠は、その生涯、その母のために建てたという「長母寺」を始め多くの寺院を建てている。
一方和気清麻呂と言えば、平安仏教と言われた、比叡山と高野山、最澄や空海を取り立てて庇護した人物として有名である。故郷の備前和気郷にも、多くの寺院の建立の記録が残っている。

私はその精神性のルーツがどこかでつながっているように思う。
私はその精神性のルーツが「秦氏」と何らかのかかわりあるのではと思っているが、まだ確証は得ていない。
私の書いている別のブログ、[吉備楽土]や「日本と宗教」にも書いているのでよかったら参照してみてほしい。