わが山田家の先祖山田次郎重忠は、鎌倉時代、尾張の山田庄の地頭であったが、承久の変の折後鳥羽上皇方につき獅子奮迅の戦いにもかかわらず、無念な最期を遂げその孫が後を継いだとある。
さて、その後戦国時代、織田信長と墨俣で戦い敗れたのち、備中に逃れ住んだのが山田家のルーツと聞いている。何年か前に本家を訪ね、墓参させてもらった。その後本家の一家は事情があり転居、その後音信がないので、気になっていた。
墓の位置は知っていたので、訪ねたが曽祖父の墓標がどうしても見つからない。一族全体の墓地なので、すべての先祖に参りる心で参拝して帰る。
帰り道、すぐ近くが「横溝正史」の疎開していた家があり、訪ねる。
江戸期の地理学者「古川古松軒」もこの地の出身で、その遺跡が残っている。
さらに進むと「岡田廃寺」の案内、案内板に従って行ってみるがよくわからない地元の婦人に聞いたら親切に教えてくれた。椋の巨木があるという。
教えてもらった通りに行くと「あった あった」
少し小高くなった丘の上に椋の木がたたずまい社があった。
ここは白鳳末期の創建で吉備真備の一族が建てたと言われている。この地域の歴史と文化を象徴する遺跡の一つである。
山田家の先祖がはるか尾張からこの地にたどりつき、代をついて今の自分があることを思うと感慨深い。吉備王国の時代から深い意味のあるこの地域である。
同好の仲間と歴史探訪会を組織ているが、一度また仲間と尋ねてみたいところである。
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