承久の変でもっとも勇猛に闘ったのがわが先祖山田次郎重忠である。[腰抜け]でちょっと判断ミスの後鳥羽院であったが・・・。最近読んだ歴史の本で、後鳥羽上皇は結構優秀だった。承久の変さえ起こさなかったら・・・」という一文があった。鎌倉幕府追討の命を発していながら、最後に責任逃れをしたのはどうもいただけないが、それでも当時の朝廷では、勇猛な性格を持った上皇であったらしい。
それはそうと・・・おかげでわが山田家はひどいめにあたった。一族は領地を没収され、佐渡にも流された。その後の経過はわからないのだが・・・・その後戦国の時代、織田信長と墨俣の戦い、破れて備中に落武者として来たのがわが先祖と聞かされた。
まあ、酷いもので・・・このとき官軍方についていなければ、ずっと尾張の地頭でしたから、もっと有名になっていたかもしれない。それは解りませんが・・・・
惟、官軍方について勇敢に戦ったという記録は、戦いに負け、号令を発した院からも見捨てられ、悲憤慷慨して自決した次郎重忠の心は生きていると思う。[心優しき侍]との評を沙石抄に残しているのも誇りである。
歴史上無念の生涯を終えた人物は数知れない。特に宗教家には多い。楠正成など忠君の士もそうである。惟それは、そのときは無念であるが、その歴史はその後の歴史に輝かしい道を開いてきた。
公家の政治から武士の政治に・・・開いてきたのは最初は平清盛だが、この承久の変を境に完全に武士が実験を握り、京都には六波羅探題が置かれた。そして武士の時代は明治維新まで続いた。
まあ、ここで一番言いたいのは・・・殉難者が殉難だけで終わってはいない。それは一見ただの犠牲のようだが[、実はそうではない。困難や殉難を経て開かれた文化がある。生き様があると言うことを言いたい。それをこれから書いていこうと思う。
今日はこのあたりで・・・
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