2010年6月26日土曜日

承久の変で児島に流された頼仁親王と児島高徳

児島の熊野神社に行ってきました。
ここは承久の変の後、北条泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐に、皇子の冷泉院頼仁親王は吉備の児島の熊野社に流されます。
児島の熊野社は、役行者が冤罪で伊豆の大島に流された時、何が熊野権現に及ぶことを恐れて、五流の門弟たちが御神体とともに児島の地に降り立ち、新熊野三山として開基した。
承久の時、後鳥羽天皇の皇子桜井宮覚仁法親王が下向され、頼仁親王の子道乗大僧正を附弟として尊龍院を継ぐようになる。その道乗大僧正の後を継いだ頼宴大僧正の三男が後醍醐天皇に忠誠をつくした児島高徳である。
今は修験道の総本山となっている五流尊龍院には児島高生誕地の碑がある。
吉備の児島に訪問記を書いているのでご覧あれ。
わが山田家が児島にあるのは何かしら縁を感じているところである。
児島高徳生誕地の碑

頼仁親王稜

2010年6月25日金曜日

少年日本史に見る山田次郎重忠

手元に昭和45年に皇学館大学の平泉澄教授が書いた[少年日本史」(昭和49年再版)がある。
その中から、山田次郎重忠に関する記述の部分を書き出してみよう。

少年日本史390頁、有名な二位の尼政子の関東の将氏に語った部分です。


「一同のもの、よくよく承れ。汝ら、今日の収入と言い。冠位と言い、すべて頼朝公のおかげではないか。そのご恩は、山よりも高く、海よりも深いであろう。それを忘れて、京へ参り、官軍に着くか。それとも頼朝公の御恩を考えて、鎌倉方としてご奉公するか、態度をはっきり決めて、ただ今ここで申し切れ。」



この言葉に感激した関東武士たちは、早速軍勢を整え出発しました。これにひきかえ官軍は行動が敏速でなく、関東の軍が遠江に入ってようやく教を出発したので、両軍の決戦は木曽川において行われることになりました。




官軍は木曽川を固めました。関東の兵は、東海・東山両道の軍ひとつになって、木曽川に迫ります。官軍の守りは、大井戸の渡より崩れ、賊軍は木曽川の右岸に出ました。下流を守っていた官軍は、腹背ともに攻撃を受ける形となり、あわてて陣を捨て、京へ退きます。しかしその中に鏡右衛門尉久綱、自分の名を墨黒々と大きく旗に記して川岸に立て、勇敢に戦って討ち死にしたのも、目覚ましく、ことに味方の総崩れにっ崩れ去ったのを尻目にかけて踏みとどまった山田次郎重忠の豪胆に至っては、 千載の後にも、人の心を激発するものがあります。重忠はわずか九十騎で、川のはたに馬を控え、敵を待っていました。賊軍幾万、向こうの岸へ現れ、之を見て、疑いを持ちました。
 「それなるは、敵か?味方か?」
 「味方だ。」
 「味方では、どなたですか?」
 「本当は敵だ。」
 「敵ではどなた?」
 「尾張の国の住人山田次郎重忠ですわい。」
賊軍からかわれて腹を立て、大軍一度に川を渡って攻めかかる。それをさんざんに射取り、上がってくるものは斬り捨てる。やがて重忠、兵をまとめて引き揚げました。
第二の戦線としては、勢多、宇治が当然選ばれました。山田次郎重忠は勢多を守り、から傘をさして兵を指揮しました。ここの守りは固かったが、戦いは宇治の手から敗れました。恐るべき大雷雨によって一丈三尺ばかりの増水に、溺死も多かったが、それに屈せず賊軍宇治川を渡るに及んで、勝敗は決しました。官軍一方の大将藤原朝俊、潔く討ち死にすれば、山田重忠も、三浦胤義も奮戦して倒れました。北条泰時は京都へ入って戦後の処分をします。・・・

[少年日本史]は皇學館大學の教授であった平泉澄氏が戦後教育の中で失われた、忠や孝の心を取り戻すべく書いた本です。中学生・高校生を対象に書かれていますが、大人が読んでも良い。


2010年6月21日月曜日

吾妻鏡に見る山田次郎重忠

「吾妻鏡」の第25、承久3年の6月3日の項に、官軍方に山田次郎重忠の名がある。
5日、洲俣で両軍対峙し、6日、両軍愛戦ったが官軍方は敗走し、ただ山田次郎重忠が一人留まって戦ったが・・ とある。
その後、10日、勢多に山田次郎重忠が派遣されたとの記述がある。
結局、官軍方は敗走して、総崩れとなり、御所に上るが、御所の門は固く閉ざされ、重忠は洛西にのがれ自刃することになる。

この承久の変で後鳥羽上皇は隠岐に流され、冷泉院【頼仁親王】は児島に流された。

2010年6月20日日曜日

坂越(赤穂)に行って秦河勝の墓と児島高徳の墓

赤穂の坂越に行ってきました。その内容は吉備楽土に書いて行きますのでご覧ください。
さて、この坂越の展示館で署名をしていたら、いろいろと詳しく説明をしてくださっていた女性の方が「私も実家が山田なんです」と言ってくださり、とても縁を感じました。
ここ坂越は、秦氏の頭領として聖徳太子の側近となった秦の川勝の墓が祀られているところとして有名ですが、どうじに、南北朝時代の忠君愛国尊王の士、児島高徳の墓がある地としても有名です。
わが先祖、山田重忠も官軍方で戦い、戦前の教科書では、代表的中心として教えられていたことを考えると、何か同族のような感じを受ける。
児島高徳の墓がここ坂越にあることは、秦氏と、忠君の祖との繋がりを感じさせられるものである。
この地を訪れて、愚直に天を信じ、忠孝を尽くす、誠実さを感じ取ることができた。
今の日本に一番大切なものがここのあると感じた。
機会があれば皆さんも訪問して見られることをお勧めする。
秦河勝の墓と言われる生島、この地にたどりついた河勝が生きて渡ったので生島と言う。木を切ることもこの島に渡ることも禁じられてきた。

児島高徳の墓

2010年6月13日日曜日

山田方谷先生とのつながり 尾張山田氏

岡山県と言えば、幕末の備中松山藩の藩政改革を成功させた山田方谷先生が有名だが、当初わが山田家とは関係がないと思っていた。しかしいろいろ家系図を調べて行くうち、同じ尾張山田氏の流れであることがわかった。
山田方谷先生の家系は清和源氏満政流、満政から5代目、山田重遠の3男に大和守重弘という人があり、この嫡男駿河守重英が、寿永3(1184)年に源範頼に従って中国地方へ転戦、その戦功によって備中国英賀郡(阿賀郡)28ヶ村を与えられて、文治3(1187)年に佐井田(才田)城主となっています。
http://gos.but.jp/houkoku.htm
清和源氏の家系は以下参照
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/seiwa_genji/genji_seiwa1.html
わが尾張山田氏は、重遠の子、重弘の兄弟、重直の孫が次郎重忠ですので、尾張山田氏から備中に下って、血統をつないできたのが山田方谷先生と言うことになり、同じ家系であることを確認しました。
また、重忠の先代、重満の兄弟が足助重長で、足助氏とも近い間柄になっています。
いずれにせよ、尾張山田氏は、尾張の守護として、全盛を誇っていた時代があり、そこから全国に散らばって行ったものと思われます。
全国の山田姓の、かなりの部分が尾張山田氏の流れをくむものと思われます。
ほかにも、わが家系は尾張山田氏だという方があれば、ぜひご紹介いただきたいとお思っています。
このブログに書き込んでいただくか
キビノコジマまでメールください。

2010年6月11日金曜日

最近気になる山田姓 ほんものの侍とは

最近何かと「山田」姓が気になる。テレビドラマでも、何かよく「山田」が登場するような気がして、気になる。NHkの朝ドラでも「山田」が登場した。タレントの中にも時々山田がいる。
歴史に関心を持って、最近本よく読むようななったが、本の執筆者の中にも山田姓が多い。そう感じるだけであろうか。最近ことさらに「山田姓」を気にしているからだろうか?
皆さんの処の「山田」はどうですか?

さて、わが先祖の「山田次郎重忠」、重忠が開いた長母寺の中興の祖「無住国師」はその著書、「沙石集」の中で、重忠のことを「こころやさしき侍」と書いている。
現在我が家のある岡山の、偉人の一人。「熊沢蕃山」は、その著の中で[侍とは“愛”である。]と書いている。平生は、作物を作るでなし、婦女のように衣を縫うでもなし、侍にあるのは“愛”だけだと、そしていざという時には武勇を発揮する。それが文武二道である。と説いている。
それに照らせば、わが先祖[山田次郎重忠]は、模範的な侍であったと言える。
熊沢蕃山については私のブログ「吉備楽土」にすこし詳しく書いているので参考にしてほしい。
「中江藤樹が熊沢蕃山に教えた“心法”の士道」
http://kibinokojima.blogspot.com/2009/12/blog-post_04.html
今は、政治家が[侍]か?
真の侍と言える指導者はいないのか?
いると信じよう!

2010年6月3日木曜日

政局の混迷 徒然に思うこと

鳩山首相が小沢幹事長ともどもに辞任した。
政局の混迷、ここの至るかと思う。
自民党の末期、短期政権が続き、いよいよそれに耐えかねて、民主党に政治を託した国民は、本当にがっかりしたのだと思う。
鳩山さんには少々期待した向きもあったのだが、結局その本領を発揮することなく終わってしまった。
私は、岡山在住で、岡山県からは多くの偉人が出ていると、偉人伝を研究したりして見ているが、鳩山家は岡山県北の勝山が父祖の地で、曾祖父の鳩山和夫は日本の最初の留学生としてアメリカにわたり法学を習得、日本最初野法律事務所をはじめ、日本最初の法学博士になるなどその果たした功績や人間性を見ると、祖父の鳩山一郎氏を含め何かしてくれるのではと期待していた。今回の事態は甚だ残念と言うしかない。
ここでわが先祖、山田次郎重忠、承久の変で官軍方で獅子奮迅の働きをしたが、悲しいかな、時の官軍が奉じた後鳥羽上皇に運がなかった。結果、時運は鎌倉方にあった。墨俣で戦い、瀬田で戦い、御所に駆け付けたが、御所の門は固く閉ざされたままだった。最後御所を守って戦おうとしたのに、口惜しい思いをもって、落ち延び自害した。
その後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、身内も各地に流された。
その一人、頼仁親王が流されたのが「児島」(現在の岡山県倉敷市児島)である。
わが故郷はこの児島であるが、何か縁があるのかもしれない。
さて、わが先祖の悲劇を思いながら、いまの混迷の政局に何か、道はないものかしきりに考えている。