2010年9月11日土曜日

太平記の世界

太平記の作者小島法師は児島高徳本人ではないかとの説がある。
太平記の中に忠臣として登場する、児島高徳は、太平記の中にだけしか登場しないので、[架空の人物]との説が、明治の時代に、論議されたことがあるが、児島高徳をめぐる、様々な史実から今は不在論を唱える人はいない。
さて、太平記は後醍醐天皇にまつわる史実がその中心をなしているが、鎌倉後期唐室町期にかけて、南北朝にまつわる歴史がつづられている。
戦後教育では、ほとんど取り上げられることもなく、筆者の年代では、その名前こそ聞いていても、読んだことのあるというものはほとんどいないであろう。このあたりの歴史についてはほとんど空白と言っても良い。日本史を代表する忠臣として尊崇された楠木正成も、その名こそ知っていても、その活躍や歴史などほとんど知らないのが、現代の人々の大半である。
さて、時代は下り、この太平記の世界というか、楠木正成に光を当てたのが、有名な[黄門様]水戸光圀こうであった。
光圀の命で大日本史の編纂が始まった。この大日本史が明治維新の一つのきっかけになったことは言わずと知れたことである。
而して、明治政府は[南朝」正統説が盛んになり、学校教育もそのように教えられた、富国強兵、忠君愛国の資料となり、結果、第二次大戦敗北の結果、逆にそれらがすべて否定され、捨てられてしまった。
日本国の進路が、右へ左へ二分して、右往左往してきた歴史である。
さて、わが先祖山田次郎重忠は、承久の変において、官軍方で獅子奮迅の働きをなして、有名な人物であるが、最後は無念の最期を遂げた。
わが郷土には、後醍醐天皇に忠誠を尽くした、児島高徳がいることは述べたが、児島高徳を産んだ、児島の熊野社は承久の変を起こした後鳥羽上皇の皇子頼仁親王が流され、兄弟の覚仁法親王とともに、児島五流の中興となり、ここから児島高徳も出た。
児島五流の由緒を見ると、頼仁親王はじめ皇子たちも、父の後鳥羽院を諌めたとある。しかし、院は聞き入れられず、承久の変をおこし、結局敗北して隠岐に流されることとなった。
太平記を読むと後醍醐天皇の人となりがよく解かるというが、結構わがままな性格だったという人もいる。
それでも、忠誠を尽くした人々の忠誠心はたたえるべきものであろう。天皇家をないがしろにしてきた歴史は問題である。
さて、歴史をみると、日本の政権の実権は天皇家になくて、祀り上げられるだけの歴史も長く続いたが、政治の実権をめぐっての複雑な歴史が日本史をつづっている。
さて、改めて忠臣とは何か?命をかけて戦った忠臣の心は何を残して来たのか?本当の楽土をそこからどう実現して行くのか?いま本当の意味での忠臣が出なくてはならない時だと、太平記の世界を見ながら思わされる。

応援お願いします
にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿