2011年9月14日水曜日

尾張山田家のルーツは清和源氏満政流

尾張山田家

尾張山田家のルーツは清和天皇の子貞純親王の子経基王(源経基)の次男源満政から始まる満政流である。
 満政の子孫は長男・忠重の系統が美濃から尾張、三河方面にかけて進出し、嫡流の八島氏からは浦野氏、山田氏、高田氏、水野氏、足助氏、小河氏、小島氏、佐渡氏、木田氏、山本氏など多くの氏族が輩出されたほか、次男・忠隆の系統は主に近江国を地盤として善積氏や雨谷氏、和田氏などを称した。また、三男・忠国は摂津国との関係が記録に残っている。(Wikipediaより)
我が家のルーツは尾張山田氏とだそうである。
先祖は承久の変で活躍した山田次郎重忠
その後、戦国の時代に織田信長と墨俣で戦い(秀吉と戦ったか?)で破れ、備中に逃れてきた。現在の倉敷市岡田・・・元真備町である。
その山田家に私の祖父が養子で入って分家したのが始まりと聞いている。
曽祖父はその血筋をずいぶん自慢していたと聞く。その曽祖父は馬に乗って村の役場に行っていたと叔母に聞いたことがある。結構気位も高くその家系の気風を引いていた人物だったらしい。
この旧真備町岡田の本家の近くには横溝正史の疎開していた家があり、横溝ファンがたくさん訪れている。地元の人たちがボランティアで案内や管理をしている。年に一度、全国から横溝ファンが金田一耕助の扮装で集まって来るそうだ。実は疎開当時の横溝正史がまさにかような格好で村を歩いていたらしい。
のどかな農村地帯である。
本家を訪ねて当主に家系図を見せてもらったが、やはり先祖は満政流で今に続いている。戦前忠君愛国がが賛美されていた時代は、学校の教科書でも忠孝の鏡とされる人物として、山田次郎重忠は教えられていたこともあり、家系に誇りを持つのは当然だったであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿