山田次郎重忠とは
Wikipediaにはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/山田重忠
尾張山田庄の地頭とある。
後鳥羽上皇が鎌倉の北条氏に対し西国の武士たちに呼びかけて、幕府追討の命を出して戦ったのが「承久の変」である。
このころ尾張山田氏は「京」とのつながりが深く、官軍方についたと思われる。
この時、鎌倉では尼将軍といわれた「北条政子」が実権を握っていたが、幕府追討の令が下ったことに怖気ついていた、鎌倉の武士団を鼓舞し、官軍に立ち向かうことを決意させていった。
自らの存亡をかけた鎌倉武士団にひきかえ官軍は「京」をないがしろにしてきた、鎌倉への不信から発した「上皇」の命であったが、まとまりに欠け、明らかに劣勢であった。
そのような中で山田次郎重忠は墨俣の戦いや勢田川の戦いなどで奮戦し、三浦胤義らとともに最後まで戦って最後は自害して果てた武将である。
承久の変については Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱 参照
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