その中から、山田次郎重忠に関する記述の部分を書き出してみよう。
少年日本史390頁、有名な二位の尼政子の関東の将氏に語った部分です。
「一同のもの、よくよく承れ。汝ら、今日の収入と言い。冠位と言い、すべて頼朝公のおかげではないか。そのご恩は、山よりも高く、海よりも深いであろう。それを忘れて、京へ参り、官軍に着くか。それとも頼朝公の御恩を考えて、鎌倉方としてご奉公するか、態度をはっきり決めて、ただ今ここで申し切れ。」
この言葉に感激した関東武士たちは、早速軍勢を整え出発しました。これにひきかえ官軍は行動が敏速でなく、関東の軍が遠江に入ってようやく教を出発したので、両軍の決戦は木曽川において行われることになりました。
官軍は木曽川を固めました。関東の兵は、東海・東山両道の軍ひとつになって、木曽川に迫ります。官軍の守りは、大井戸の渡より崩れ、賊軍は木曽川の右岸に出ました。下流を守っていた官軍は、腹背ともに攻撃を受ける形となり、あわてて陣を捨て、京へ退きます。しかしその中に鏡右衛門尉久綱、自分の名を墨黒々と大きく旗に記して川岸に立て、勇敢に戦って討ち死にしたのも、目覚ましく、ことに味方の総崩れにっ崩れ去ったのを尻目にかけて踏みとどまった山田次郎重忠の豪胆に至っては、 千載の後にも、人の心を激発するものがあります。重忠はわずか九十騎で、川のはたに馬を控え、敵を待っていました。賊軍幾万、向こうの岸へ現れ、之を見て、疑いを持ちました。
「それなるは、敵か?味方か?」
「味方だ。」
「味方では、どなたですか?」
「本当は敵だ。」
「敵ではどなた?」
「尾張の国の住人山田次郎重忠ですわい。」
賊軍からかわれて腹を立て、大軍一度に川を渡って攻めかかる。それをさんざんに射取り、上がってくるものは斬り捨てる。やがて重忠、兵をまとめて引き揚げました。
第二の戦線としては、勢多、宇治が当然選ばれました。山田次郎重忠は勢多を守り、から傘をさして兵を指揮しました。ここの守りは固かったが、戦いは宇治の手から敗れました。恐るべき大雷雨によって一丈三尺ばかりの増水に、溺死も多かったが、それに屈せず賊軍宇治川を渡るに及んで、勝敗は決しました。官軍一方の大将藤原朝俊、潔く討ち死にすれば、山田重忠も、三浦胤義も奮戦して倒れました。北条泰時は京都へ入って戦後の処分をします。・・・
[少年日本史]は皇學館大學の教授であった平泉澄氏が戦後教育の中で失われた、忠や孝の心を取り戻すべく書いた本です。中学生・高校生を対象に書かれていますが、大人が読んでも良い。
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