山田家のスピリット
「心優しく民の煩いを知る侍であった。」 鎌倉期の名僧無住国師がわが先祖山田次郎重忠について「沙石集」に書かれた一節である。その先祖の心で今の世相を見てみようと思う。
2010年6月21日月曜日
吾妻鏡に見る山田次郎重忠
「吾妻鏡」の第25、承久3年の6月3日の項に、官軍方に山田次郎重忠の名がある。
5日、洲俣で両軍対峙し、6日、両軍愛戦ったが官軍方は敗走し、ただ山田次郎重忠が一人留まって戦ったが・・ とある。
その後、10日、勢多に山田次郎重忠が派遣されたとの記述がある。
結局、官軍方は敗走して、総崩れとなり、御所に上るが、御所の門は固く閉ざされ、重忠は洛西にのがれ自刃することになる。
この承久の変で後鳥羽上皇は隠岐に流され、冷泉院【頼仁親王】は児島に流された。
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